三、告白

 夜半――時計の長針と短針がぴったり真上で重なった頃、宣言通り、彼女は私の部屋の扉を叩いた。昼間のそれより一層控えめな音に、私はあからさまに動揺した。

 彼女の言い付けを守るために、私は一睡もしなかった。否、出来なかった。目は冴える一方で、あまりに喉が渇くから、水差しの水を飲み干してしまったほどだ。矢をつがつるを極限まで引いた弓のように、私の心は張り詰めていた。彼女のたった三度のノックが、私の死因にさえなり得た。

 恐る恐る扉を開ける。少女は、昼間と同じように廊下に立っていた。暗がりの中、室内から漏れる灯りを受ける彼女は、日中よりも大人びて見える。鮮やかなはずの着物の色も柄も闇に溶け、素肌だけが浮き上がるように明るい。よく見ると、彼女は小振りなとうの籠を片手に提げていた。籠からは魔法瓶の頭が覗いている。

「よかった。起きていらした」

 不可思議は安堵したようにはにかんだ。その様子があまりに愛らしく、私はうっかりほうけてしまった。

「こんばんは、清一郎さん。お約束の通り、お迎えに参りました」

「迎えに? 一体、どちらへ」

「夜空のよく見える、秘密の場所に。ついていらして」

 珍しくはしゃいだ様子で、少女は私の手を取ると、ゆっくり歩き出した。彼女の手は小さく、ひんやりとしている。触れ合う箇所から早鐘を打つ心臓の音が伝わりはしないかと、ますます鼓動が加速した。

「足元に気を付けてくださいね。清一郎さんには灯りのない廊下は危ないでしょう」

「ふ、不可思議さんは、どうしてこの暗がりの中を自在に歩けるのですか」

「わたくしは夜目よめが利きますから。こうした暗がりの方がよく見えるくらいですわ」

 そういえば、平素、彼女はよく晴れた日には窓辺に近寄らない。もしかしたら、瞳の色素が薄いので光を余計に眩しく感じているのかもしれない。考えを巡らせているうち、不可思議は足を止めた。

「ここは……」

「わたくしの部屋です」

「い、いけません! 未婚の女性が私室に男を招くなど」

「安心なさって。取って食ったりなどしませんわ。それに、わたくし、清一郎さんのこと信頼していますから」

「そっ、そういう問題ではなく!」

「しーっ。お静かに。あんまり騒いでは、ばあやが目を覚ましてしまいますわ」

 彼女はぴんと立てた人差し指を私の唇に宛てがった。まるで幼い子どもを叱るような口振りに、心臓を掴まれたような心地がした。ほんの少し、ちょんと触れた指先。両頬がかっと熱くなる。咄嗟に顔を背けた私を、不可思議はくすくすと笑った。

「さあ、お入りになって。秘密の場所は、この中にあるのです」

 半ば無理矢理彼女の私室へ引き入れられた。室内には灯りがなく、カーテンも閉じていた。薄暗くて、辺りがよく見えない。薬品のような香りに混じって、微かに甘い香りがする。

 少女は扉を閉めると、私の手を引き、壁際まで誘導した。私に与えられた部屋同様、壁の一面が本棚になっているらしい。彼女は本棚の中の一冊の背を引く。すると、木の擦れるような鈍い音とともにその本棚が九十度ほど奥へ動いた。隠し扉になっていたのか。

「段差があります、お気を付けて」

 小さな背中に続いて中に入る。想像したより明るい。天井から仄かな光が差していた。

 押入れほどの空間に、階段箪笥だけがあった。高さに対して段数が少ないせいか、梯子はしごのように急な角度だ。光は、階段の先――天井にぽっかり空いた、上階への開口部から注いでいる。

「この上です。どうぞ、お上がりになって」

 不可思議に促され、階段を昇る。数段上がっただけで開口部から頭が出た。目線の先には、窓枠に切り取られた星空があった。

「これは……」

 板張りの床に上がる。天井裏――否、屋根裏部屋か。屋根が低い、それに斜めだ。頭や肩をぶつけないよう、四つん這いになって詰める。奥は少しばかり上にゆとりがあった。胡座を掻いても屋根に頭が触れない。

「よく見えるでしょう?」

 不可思議が言った。彼女は慣れた様子で屋根裏まで上がり、私のすぐ隣に腰掛けた。居住まいを正そうと腰を浮かせた私を、彼女はどうか楽になさって、と制した。その言葉に甘え、再び胡座を掻く。気持ちがそわそわとして落ち着かない。いつにも増して距離が近いのだ。それを知ってか知らずか、彼女はいつも通りの微笑みを私に向ける。

「物置きだったのを片付けたんです。西陽が差すので日のあるうちには上がれないのだけれど、夜はこうして星がよく見えるのですわ。もうしばらくすると月も見えます」

 不可思議は籐の籠を傍らに引き寄せると、中から魔法瓶を取り出した。続いて、猪口ほどに小さな湯呑みがふたつ。そのうちのひとつを、彼女は私に差し出した。意図を察せずにいると、彼女はくすりと笑って

「言いましたでしょう? お茶をしましょう、って」

「あ……そう、でしたね」

 彼女のことで頭がいっぱいで、用向きのことがすっぽり抜け落ちていた。気恥ずかしさに思わず後頭部を掻く。彼女はまた笑った。

「かわいいひと」

「かわ……っ⁉」

「本心ですよ」

「……揶揄からかわないでください」

「あら。信じてくださらないの?」

 じっと見つめられて、頬が燃えるように熱くなる。きっと耳の端まで赤くなっている。目を逸らしたい。けれど、彼女の瞳がそれを許さない。星の光を映した瞳が、優しく私を射抜く。

「わたくしの言葉が、信じられない?」

「そういうわけでは……しかし、」

「なあに?」

「……自分は、」

 躊躇いながら、口を開いた。

「自分は、あなたより年嵩としかさです。外見だって、凶悪な自覚はあります。なんの面白みもない、ただの凡愚です。それを、かわ、かわいいだなんて」

「なあんだ、そんなこと」

 柔らかな微笑みを湛え、少女は応えた。

「歳なんてたったの八つしか離れていないし、切れ長のおめめだって凛々しくて素敵だわ。凶悪というより、精悍なお顔立ちね。それに、凡愚だなんて仰るけど、清一郎さん、あなたとっても稀有けうな方ですわ。だって、こうしてわたくしとおしゃべり出来るんですもの」

「え?」

 予想外の言葉に面食らう。

「その前に、まずはお茶を。冷めてしまいますわ」

「あ、ああ……はい」

 受け取った湯呑みに、魔法瓶から液体が注がれる。湯気とともに爽やかな香りが立ち昇った。緑茶のようだ。こぼさないよう慎重に口元へ運ぶ。ひと口含むと、柑橘にも似た香気が鼻に抜けた。ほっと息を吐く。張り詰めていた糸が緩んでいくようだ。

「美味しいです」

「よかった」

 不可思議はもうひとつの湯呑みに茶を注ぎ、音もなくひと口含んだ。暗がりの中浮かぶ白い喉が、そっと波打つ。彼女は湯呑みを持った両手を、正座した腿の上に置く。

「わたくしの縁談の話なのですけれど――」

 ぎくりとした。

 核心ともいうべき話題に身体が強張る。少女は一瞬言い淀むように口を閉じ、けれどゆっくりと話はじめた。

「先日、縁談とは知らされずに相手の方とお会いしたんです。生理学を研究されているとお聞きしていたから、言葉の通じる方だと楽しみにしていたのに……あの方、態度こそ慇懃いんぎんだけれど、ちっとも会話が噛み合いませんでした。わたくしのことを子どもとあなどっているのだわ。変に言葉を平易に言い換えたりして。遠回りするばかりで、要領を得ないったらなかったの。全然楽しくありませんでした」

 不可思議は頬を膨らませた。怒って、いや、むくれているのか。このやしきから出ることのない彼女にとって、他人と会って話す機会はきっとそう多くない。よほど楽しみにしていたのだろう。

「清一郎さんより前にこの邸へいらした殿方たちもそう、みんなおんなじ。彼らにはきっと、わたくしは利用価値のある子どもでしかないのだわ」

「そんなこと――」

「ない、と言い切れまして?」

「……それは、」

「ごめんなさい。意地悪を言いました」

 少女はもう一度茶を飲んだ。長い溜め息をひとつ吐き、再び湯呑みを腿の上に載せた。

「わたくし、半分は諦めていたんです。この邸から出ることも、誰かと言葉を交わすことも。十二年前……ほんの数日だけ、尋常小学校に通ったことがあったのです」

「……初耳です」

「一週間も保ちませんでしたから。そのとき知ったんです。わたくしに見えている世界が、他人のそれとは違うということに」

 まるで罪を告白するように、少女は語る。

「その頃です。わたくしがこの邸に入れられたのは。軍の殿方が代わる代わるやって来て、わたくしに無数の書籍を与えました。あの頃は、勉強をするのが純粋に楽しかったのです。新しい物事を知って、応用して。でも、だんだんつまらなくなっていった。……彼らがわたくしになにを求めているか、わかってしまったから」

 不可思議の言葉に、感じるものがあった。

 彼女は理性的で賢明、才気煥発といっていい。けれど同時に、人一倍繊細でもある。きっと、言外に滲んだ感情――打算、我欲、あるいは保身――を鋭敏に察知したのだろう。それらは、私にもある感情だ。

 そして、思い至る。

「だから、なのですか。だから、猫に――マメに、義肢を」

「やっぱり、清一郎さんはお優しい」

 不可思議は、どこか悲しそうにはにかんだ。

「どうせなら、誰かの助けになるものを作りたかったんです。マメがこの邸に迷い込んでくれたのは僥倖ぎょうこうでした。それに……清一郎さん、あなたも」

「……自分が?」

「ええ。三年前の、あの日――あなたはこの邸にお見えになった。あなたの前に、十七人の方にお会いしました。閑職だと思われたのでしょうね、みなさん、わたくしを見るなり顔色が変わりました。当然ですわね。けれど、あなただけは違った。あなたは、わたくしを前にしても態度を変えなかった、ただひとりのひと」

 硬質だった声が、ふっと和らぐ。

 不可思議は私を見上げ、

「あのときの封書の中身、ご存知?」

「い、いえ、なにも。開封せず渡すよう、上官から預かっただけですので」

「中身はあなたの身上調査書でした」

「えっ」

「出自、経歴、賞罰、戦績、品行――調査書にあるすべてに目を通しました。そのうえで、清一郎さん、あなたを信用することを決めたのですわ」

 窓の向こうから月明かりが差す。

 微笑む少女の顔に、私は拳を強く握った。

「武功の全くない、戦地での負傷で昇級しただけの自分を、ですか」

「ええ」

「身上調査書を見ただけで、会ったばかりの自分を?」

「わたくし、人間を見る目には自信がありますわ。それに、この三年で、あのときの判断は決して間違いではなかったと確信していてよ」

 不可思議は、私の拳に小さな掌を重ねた。ひんやりとしていたはずの彼女の手は、もう冷たくなかった。彼女は私の拳を両手でそっと包んだ。まるで、ぬくもりを分け与えるように。

「わたくしを見下さず、恐れもせず、媚もしない。対等な人間として扱ってくださったのは、ばあや以外にはあなただけなのですよ。わかっていらして?」

 どこか拗ねたような口調。その表情はあまりにも優しく、甘やかだ。

「あの日、わたくしには夢が出来ました。あなたに――清一郎さんに出会ったから、わたくしは夢を持つことが出来たの」

「不可思議さんの、夢……?」

「機械式義肢の開発を研究していることは、以前お話ししましたでしょう? そこからもう一歩発展させて、装着者の脳と繋いで自在に操作することが出来る義肢を造ること――それが、わたくしの夢になったのですわ」

 はにかむ彼女が、眩しく見えた。

 喉の奥がひりつく。

「あなたは、本当に……わた、自分のことを、買い被っておいでです」

「そうでしょうか」

「自分は、特別劣ってもいない代わりに、なにごとにも秀でていない」

「謙遜は美徳のひとつですが、過ぎれば傲慢になりましてよ」

「……自分は、」

「はい」

「あなたに認めていただけるような、綺麗な人間ではありません」

「頑なね」

「あなたは……あなたこそ、ご存知ないのです」

 ――私の中に渦巻く、劣情を。

 ぽたり。

 手の甲に、生ぬるい雫が滴った。

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