第2話 「揺れる視線、試される心」

部活終了のホイッスルが体育館に鳴り響くと、空気が一気に緩んだ。


夕暮れの光が大きな窓から差し込み、オレンジ色に染まった床に卓球のネットの影がゆらゆらと揺れている。女子卓球部部長の藤岡純夏(ふじおか すみか)は汗を軽く拭きながら、いつものように明るい声を張り上げた。


「はーい! 今日の練習はここまでにします。みんな、片づけ始めて下さい!」


活気ある声が体育館に響くと、部員たちはラケットを片手に談笑しながら片づけを始めた。


「城山君、河村君。練習相手になってくれてありがとう。力強い球を久しぶりに受けたわ!」


純夏が笑顔で近づいてきた。ショートヘアが揺れ、汗の光が生き生きとした表情を照らしていた。


「こちらこそ、ありがとうございました。県の強化選手と練習できて、本当にいい経験になりました。」


コウメイが礼儀正しく頭を下げる。その横で、やや気まずそうに視線を逸らしていた恵一が、軽く肩をすくめた。


「どうもでした。練習の足を引っ張ってたのは俺ですから、すみませんでした。」


その声に反応したのは、いつも冷静な副部長・森崎奈々美(もりさき ななみ)だった。長い睫毛の奥に鋭さを秘めた瞳が、じっと恵一を見つめる。


「そんなことないわよ。要所要所で見せたあなたのレシーブ、良かったわ。」


一歩、二歩と近づいてくる彼女の気配に、恵一の背中がうっすらと緊張する。


「ところで、河村君。あなたに聞きたいことがあるの。」


その声は妙に静かで、妙に重い。


「この後、解散したら……視聴覚教室に来てくれない?」


「え……? なんでしょう。何か、俺、まずいことでも……?」


「そうじゃないの。確かめたいことがあるのよ。……一人で来てね。」


彼女の表情に曇りはなく、ただ真剣だった。


恵一はちらりとコウメイを見る。だが、その視線には応えず、奈々美は踵を返して立ち去った。


「……なあ、メグ。あの先輩、すげー睨んでた気がするんだけど、なんかしたのか?」


「さっぱり。……っていうか、またかよ。今度はお説教か、あるいは『女が混じると集中できない』的なやつかもな。」


自嘲気味に笑う恵一の目はどこか冷めていた。


「ま、なるようになれ、だよ。コウメイ、悪いけど先に帰ってくれ。『一人で来い』って命令だからさ。」


「わかった。……気をつけろよ。」


夕暮れ 視聴覚教室


人気のなくなった校舎に、足音がポツリ、ポツリと響く。廊下の窓から差し込む光はもう朱色ではなく、夜の青に近づいていた。


ガラリと視聴覚教室の扉を開けて入ると、そこには誰もいなかった。教室内のカーテンは半分だけ閉じられ、薄暗い室内には古びた映写機と何脚かの椅子が静かに佇んでいる。


恵一は溜息をつきながら、空いた席に腰を下ろした。


「……遅いな、先輩。」


その時だった。


「ごめんなさい。遅くなって。」


背後から聞こえた声に振り返ると、制服姿の奈々美がそっと入ってきた。肩にかかるロングヘアが、微かに乱れている。


「生徒会役員会が長引いちゃって……私、生徒会の副会長もやってるの。忘れてて、ごめんなさい。」


「副会長って……すごいですね。で、あの、話って……」


「……お説教じゃないわ。」


彼女の声が低くなり、瞳が真っ直ぐ恵一を射抜いた。


「河村君。あなた……女でしょう?」


息を呑むような沈黙が落ちた。


「どうして男子の卓球部に入部したの?」


「はあ……またか。」


恵一は天井を見上げて、やや乾いた笑いを漏らした。


「もううんざりなんですよね。中学の頃から告白されるんですよ、男の子から。」


「な、なに言って……!」


「でも女性から『好きです』って言われるのは初めてかな。……先輩、俺に気があるんですか?」


「ちがっ……なに言ってるの!? ば、馬鹿じゃないの!?」


奈々美は顔を真っ赤にしながら、机を叩きそうな勢いで声を上げた。


「私は事実を知りたいの! あなたが女でないって、どうしても信じられない!」


「じゃあ、証明します? 服でも脱げば、納得しますか?」


「……ええ。そうして。」


その瞬間、空気がピシリと凍りついた。


「……なるほどね。じゃあ、こっちからも条件出しますよ。先輩も自分が女だって証明してください。」


「な……っ!」


奈々美の頬がさらに赤く染まり、唇が震えた。


「わかったわ……受けて立つ。」


夜 視聴覚教室


月が高く昇り、教室には人工の明かりだけが静かに灯っていた。


カーテンの隙間から覗く夜の闇。制服のボタンをゆっくり外していく恵一の手が、微かに震えていた。


シャツが脱がれ、胸元が露わになると、奈々美の目が驚愕に見開かれた。


「やっぱり……胸、あるじゃない……って、ちょっと、下着付けてないの?」


「ブラ? つけてませんよ。俺、男ですから。」


「だって、その大きさで……!」


「見たければ見てくださいよ。下も脱ぎます。……どうぞ。」


そして――奈々美の目の前に、その証拠が現れた。


彼女の口が震え、喉が小さく鳴った。


「あ、ああああ……キャッ……♥」


「これで、納得ですか?」


恵一は制服を拾い上げ、黙ってボタンを留めた。


「さあ、次は先輩の番ですよ。」


しばしの沈黙ののち、奈々美はゆっくりとスカートのホックを外し始めた。白い肌が、下着の上に浮かび上がる。


「……これ以上は……」


その時、彼女の瞳に涙が浮かんだ。


「もう……いいです。」


恵一はゆっくり目をそらした。


「あなたが女性だってこと、十分わかりました。これ以上、互いを傷つけるのはやめましょう。」




二人の間には、静かな沈黙が流れた。


「世の中にはいろんな人がいます。男と女、それぞれに個性があって、誰一人として同じじゃない。」


「個人的な興味だけで、人の心の中に踏み込むのは……よくないですよ。」


「さあ、帰りましょう。今日のことは、僕と先輩だけの秘密です。僕も忘れますから。」


「……待って。」


奈々美がか細く、でも確かに声を上げた。


「ごめんなさい……あなたの気持ちも、考えずに……。」


「いいんです。先輩にも……恥ずかしい思いさせちゃったし。」


「……河村君……」


「そこまで一緒に帰りましょうか。……奈々美先輩。」


「……その『先輩』はやめて。奈々美で、いいわ。」


「……わかりました。奈々美さん。」


二人は夜の校舎を並んで歩き出した。月が、淡い光でその背中を照らしていた――。


夜、奈々美の部屋――


部屋のカーテンが、風にかすかに揺れた。

開けたままだった窓から、夜の気配が忍び込んでくる。

天井の灯りはもう消して、机のスタンドだけが淡く部屋を照らしている。

その静けさの中に身を置いて、私は一人、あの出来事を思い返していた。


あの視聴覚教室の――

誰もいない、校舎の片隅で、ただ二人だけで向き合ったあの時間のこと。


最初は、ほんの些細な――けれど確かな、違和感だった。


男のはずなのに、あのしなやかな仕草。

女のような声。女のような空気。

なのに、男子の制服を着て、男子卓球部にいるという事実。


私は、許せなかった。

ルールに反している、という正義感もあったけれど――

その“曖昧さ”が、自分の内側に何かを波立たせるのが、嫌だったのかもしれない。


……でも。


「僕は、男です。」


そう言って私を見つめた、あの瞳。

まっすぐで、澄んでいて、どこまでも真剣だった。


嘘じゃなかった。ごまかしでもなかった。

揺れていたのは、彼じゃない。私のほうだった。


私が……勝手に、決めつけていた。

「男ならこう」「女ならこう」と。

そして、その枠に当てはまらない人間を、どこかで見下していた。


でも、彼は――河村恵一は。

その“間”に、確かに存在していた。

どちらでもなく、どちらでもある者として。

堂々と、そこに立っていた。


あのシャツの隙間から覗いた肌。

柔らかく、滑らかで……だけど確かに男の身体の証明もそこにあった。


美しかった。

怖かった。

そして――羨ましかった。


私は、ずっと「正しさ」にすがって生きてきた。

生徒会副会長、県の強化選手。模範的な成績。

「女の子らしく」「ちゃんと」「誰からも認められるように」――


その中に自分を押し込んで、安心していた。

“良い子”の仮面を被ることが、私の自己防衛だった。


でも彼は違う。

悲しみも、偏見も、曖昧さも全部受け止めて――

それでも、「自分でいたい」と、あの瞳で言った。


私は、負けたのだ。


(ポニーテールをほどき、髪を手ぐしでとかす)


……河村恵一。


あなたは、いったい何者なの?


私が知ってる「男」でも、「女」でもない。

でも、それでいて、どちらよりも――人間らしかった。


私は今、ここにいて、たった一人で、

あなたのことを思い返している。


これが「興味」なのか。

それとも、「恋」なのか。


(そっと、自分の胸に手を当てる)


こんな気持ち、初めてだった。


たぶん私は、あなたのことを――

もっと知りたいと、心から思ってしまっている。




『揺れる心、交差するまなざし』


<次の日:通学路>


朝の空気はまだほんのり冷たく、澄み切った青空の下、街路樹が朝日を浴びて静かに影を落としている。舗道には桜の花びらが散らばり、春の訪れを告げていた。


そんな中、コウメイがいつもの調子で声をかけてきた。


「よう! おはよう、メグちゃん! 昨日はどうだった?やっぱり絞られたのか?」


元気な声に、恵一は少し肩をすくめながらも、苦笑して返す。


「え、何が?」


「いや、森崎先輩にだよ。あのあと話してたろ? なんだったんだ?」


恵一はほんの一瞬、視線を空に泳がせてから、淡々と答えた。


「それがさ……大した話は無かったんだ。お説教でもなかったし。『もっと練習して上手になれ』ってさ。」


「なんだ、それだけか。」


「うん。それだけだよ。ははは。」


恵一の笑いには、どこか無理をしている響きがあった。コウメイはそれを感じ取ったのか、横目でちらりと彼の顔を覗き込む。


(……メグ、何かあったんだな。あいつ、何かあるとすぐごまかすんだ。分かりやすいけどさ。)


コウメイは内心でそう呟きながらも、それ以上は詮索しなかった。


(……メグがなにも無いって言うなら、今は様子を見るか。)


「さ、メグ!急がねーと、また遅刻だぞ!」


「おう!」


ふたりの足音が朝の通学路に響き、並んで歩く姿が少しずつ遠ざかっていった。




<校舎の裏手・その頃>


朝の光が校舎の壁を淡く染める中、純夏が奈々美に声をかけた。


「おはよう!奈々美。昨日はどうだった?」


奈々美は一瞬言葉に詰まり、視線をわずかに逸らした。


「え、昨日……?」


「ほら、河村君のこと。確かめたんでしょ?」


「え、えーと……昨日は生徒会の役員会が長引いちゃって……だから……」


「それで?」


「……話してないの。」


純夏は奈々美の表情をじっと見つめ、そして穏やかに微笑んだ。


「そっか……(ふぅん、奈々美、何かあったのね)」


そして、少し声を和らげて囁くように言った。


「ねえ、奈々美。困ったことがあったら、ちゃんと相談してね。私たち、ペアなんだから。」


奈々美は驚いたように目を瞬かせ、そして微かに微笑んだ。


「……そうね。そうする。」


その瞬間、遠くから聞き慣れた声が響いた。


「城山くーん!おはよう!」


純夏が手を振ると、通学路の向こうからコウメイと恵一がこちらに歩いてきた。


「昨日はダブルス練習してくれてありがとう!」


「こちらこそありがとうございました!」とコウメイが元気よく頭を下げる。


「お前も御礼言えよ、メグ!」


「あ、ありがとうございました……」


恵一は少し緊張した面持ちで頭を下げた。そんな彼に、奈々美が小さな声で呼びかけた。


「あ、あの……河村君……」


「何ですか?奈々……いや、森崎先輩。」


その言い直しに、奈々美の肩がピクリと揺れた。


「昨日は話できなくてごめんなさい。生徒会の会議が……長引いて……」


「そ、そうでしたね。もう、いいんですか?……お話。」


「ええ……もう、いいわ。ごめんなさいね。」


そう言って奈々美は、制服のポケットから一枚の手紙をそっと取り出し、彼の手に握らせた。


「これ……あとで読んで。誰にも見せちゃだめよ……」


声はかすれ、表情はどこか申し訳なさげだった。


「……あ、はい。」


「なんだなんだ〜、森崎先輩からラブレターか?」とコウメイが茶化すが、恵一は苦笑いしながら首を横に振った。


「そんなんじゃないと思うよ……でも、これはコウメイにも見せられないな。ごめん。」


「いいってことよ、気にするな。」


ふたりはそのまま教室へと向かった。


<教室:1年B組>


席に着いた恵一は、手紙をそっと机の下で開いた。奈々美の筆跡は、繊細で丁寧だった。


『河村君。昨日はごめんなさい。あなたには本当に酷いことをしました。

謝ってもすまされないことだと思うけど、もう一度謝ります。ごめんなさい……』


その文面には、ひと文字ずつ心が込められていた。便箋の一部が微かに波打っている。──涙だ。


「……奈々美さん。昨日、あれから書いてくれたんだな。」


彼女がどれほど悩んだのか、想像すると胸が痛くなった。


「(あとは……俺の態度次第だな。)」


そのとき、隣の席からふわりと甘い香りが漂った。


「……あれ?河村君、手紙読んでる。誰から?」


松原文香(まつばら ふみか)だった。彼女の目が、恵一の手元をちらりと見た。


「え、なんでもないよ。君には関係ないものさ、ははは。」


「(……すごく綺麗な字だったな。可愛い便箋だったし……ラブレター、なのかな?)」


ふいに文香が小さな声で聞いた。


「河村君。彼女いるの?」


「いきなり何ですか。いないよ。今は。」


「“今は”? てことは、これからできる予定がある……とか?」


「なんでそんなこと、君に言わなきゃいけないのさ。」


彼女は、ほんの一瞬だけ俯いて、そっと言った。


「……好きなの。河村君のこと。」


恵一はしばらく言葉を失った。


「……え、そうなの……って、えええーっ!?」


その驚きの声が教室に響き、コウメイが振り返った。


「どうした、メグ?珍しく大声なんか出して……」


「い、いや、なんでもない……」


文香は恥ずかしそうに笑いながら、つぶやいた。


「ねえ、城山君ってかっこいいけど……河村君は、中性的で綺麗だよね。ふたりで並んでると、まるでカップルみたい。」


「……俺とコウメイが? いや、それはないでしょ。」


「君がどう見ても勝手だけど、俺は男なの!。」


「だから……好きになったの。」


静かに、でも真っ直ぐに告げられたその言葉に、恵一の胸はほんの少し温かくなった。


<放課後>部活の時間


卓球場には、夕方の陽光が窓から斜めに差し込んでいた。

床に伸びる光の筋が、練習に励む部員たちの影を長く引いている。


ラケットが球を打つ乾いた音が、体育館の天井に反響していた。

その合間に、誰かの笑い声、シューズが床を擦る音、そして時おり飛び交う掛け声が混じる。


卓球台の一つでは、ケンちゃんこと大山賢二が軽快に動きながら、同じく1年の元木隆文――フミちゃんとラリーをしていた。


「フミちゃん、ちょっと上手くなってねぇ?球に伸びがあるよ。」

「ふふ、勉強ばっかしてたわけじゃないってとこ見せなきゃな。」


彼らのやり取りは和やかだが、真剣さも帯びていた。

男子部の空気が、少しずつだが変わり始めている。

それは、あの出来事――コウメイと恵一のダブルス試合から、確かに始まっていた。


奈々美たち3年生女子の練習台になることも増え、部内の実力差や性別にこだわる空気は、どこか薄らいでいた。

いや、もしかすると――恵一の“存在”そのものが、空気を変えたのかもしれない。




<女子部側・練習中>


ポニーテールを揺らしながら、奈々美は真剣な眼差しで球を打ち返していた。

その表情は、昨日までとどこか違う。

どこか柔らかく、でも芯のある――そんな目だった。


純夏は、その変化にすぐに気づいた。


「奈々美、いい顔してるわね。」

「え?」

「なんか……吹っ切れたみたいな。そんな感じ。」


奈々美はほんの一瞬だけ、顔を伏せた。

けれどすぐに、笑みを浮かべて言う。


「そうかも。ようやく……ちゃんと向き合えた気がするの。」


純夏はにっこりと笑って頷いた。

「河村君に、でしょ」とはあえて言わない。

それを言葉にする必要はなかった。


<男子部側・練習台での恵一>


「メグ、ちょっとラリー付き合ってくれ!」

先輩の一人が声をかけてくる。

以前なら恵一に話しかけるのを躊躇っていた彼らも、今では自然にそうしてくる。


恵一は軽く頷いて、ラケットを構える。

球が打ち出され、集中して返す。

その動きには無駄がなく、落ち着きすら感じられる。


打ち合いながら、ふと奈々美のことを思い出す。

体育館裏で手紙を渡したときの、彼女のうるんだ瞳。

素直に謝り、まっすぐに向き合ってくれた姿。


(あの人も、きっと悩んで、葛藤してたんだろうな……)


恵一の中で、何かが確かにほどけていた。

自分を受け入れてくれる人がいるという事実は、何よりも心強かった。




<その日の終わり・部室前>


「メグ、今日も頑張ってたな。」

「まあね。先輩たちも最近はやさしくしてくれるし、ちょっとだけ慣れてきたよ。」


コウメイは肩をすくめて笑った。


「メグはどこに行っても、ちゃんと受け入れられるさ。お前、自分じゃ気づいてないけど……すげえ奴だよ。」


恵一は、少し照れくさそうにうつむいた。


「……ありがとな、コウメイ。」


照り返しの夕陽が、二人の影を並べて伸ばす。

その長く伸びた影の先には――新しい日常が、確かに広がっていた。


<放課後・体育館裏>


部活の終わりを告げる笛の音が、体育館に残った熱気の中に消えていった。

部員たちはそれぞれラケットを片づけ、荷物を抱えて帰路につく。


恵一はいつもよりゆっくりと靴を履き、ふと視線を体育館裏の小道へと向けた。

風に揺れる木々の向こう、赤く染まる空が見える。


――あのとき、奈々美に手紙を渡した場所。

何かが変わったあの夕暮れ。


重たい扉を開け、恵一は静かに裏手へと向かう。

風が制服の裾を軽くはためかせた。

そしてその場に――彼女は、いた。


奈々美は壁にもたれ、目を閉じていた。

まるで、風の音を聴いているかのように。


「……待ってたの?」


その声に、奈々美はゆっくりと目を開いた。


「ええ。……あなたが来ると思ったから。」


二人の間に、沈黙が流れる。

でも、それは決して気まずいものではなかった。

むしろ、心が静かに溶けていくような、穏やかな空気だった。


「あの手紙……読んでくれて、ありがとう。」

「こちらこそ……返事、遅れてごめんなさい。」


恵一は奈々美の隣に立つ。

夕陽が二人の影を壁に映し出していた。


「私ね、最初はあなたが怖かったの。」

「……知ってるよ。」


奈々美は小さく笑う。


「でも違った。あなたは……誰よりも、正直で、誠実だった。」

「……ありがとう。でも、まだ分からないこともたくさんある。自分のことも……周りのことも。」


「いいのよ。分からないからこそ、歩いていけるんだと思うわ。」


風が、二人の間をやさしく通り過ぎる。

その風の中で、奈々美は小さくつぶやく。


「もう、“女子が男子卓球部にいるのはおかしい”なんて、思わない。」


恵一の胸に、何かがじんわりと広がっていく。

それは、言葉にはできない、確かな温もりだった。


「……ありがとう。」


奈々美は少し頬を赤らめ、恵一の顔を見つめた。


「私……あなたのこと、もっと知りたいって思った。」


その一言が、夕暮れの空に溶けていく。


恵一は、まっすぐに彼女の目を見つめ返す。


「俺も。奈々美さんのこと、もっと知りたい。」


空は、すでに橙から藍へと変わり始めていた。

体育館裏――その静かな場所で、二人は確かに、心を通わせたのだった。


(つづく)


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