確率分布は嘘をつかない
第7話 プロローグ ~期待値という名の幻想~
スマートフォンの画面が、無数の怨嗟で埋め尽くされていた。
『#サイバーキャッチャー』
『#確率操作』
『#景品取れない』
そんなハッシュタグと共に流れていくのは、煌びやかなゲーム機の写真と、怒りに満ちたテキストの奔流。
「またこれか…」
警視庁捜査一課のオフィスで、熱田 仁はうんざりした顔で報告書をめくった。
超人気クレーンゲーム「サイバー・キャッチャー」。
その限定景品が、ネットオークションで異常な価格で取引されている。
それに伴い、「確率がおかしい」「絶対に取れない詐欺だ」という被害相談が、この一週間で数十件も寄せられていた。
「たかがゲームに熱くなりやがって」
受話器の向こうで、まだ声にあどけなさの残る高校生が訴えている。
「お小遣いを全部つぎ込んだんです! 店に書いてある『推定プレイ回数』を信じたのに…! こんなの、期待させるだけさせて、裏切るなんてひどすぎます!」
期待。
またその言葉か。
熱田は、やり場のない苛立ちを込めてボールペンをデスクに置いた。
被害者たちの調書には、判で押したようにその言葉が並んでいる。
『期待していたのに』
『期待値を信じたのに』
その響きは、熱田がこれまで追いかけてきた古典的な詐欺事件の被害者たちの声と、奇妙に重なって聞こえた。
手口は新しくなっても、人間の欲望と失望の構図は何も変わらない。
「熱田さん、まだそんなもの読んでるんですか」
背後から、体温を感じさせない声がした。
振り返ると、統崎 計が冷めた目でこちらを見下ろしている。
「なんだ、お前か。これは立派な捜査資料だ。お前の好きな『データ』ってやつだよ」
「いいえ。それはノイズです。感情的な訴えの集合体に、客観的な価値はありません」
統崎はそう言い放つと、熱田の手元にある調書の一文を指さした。
『期待値を信じたのに』
その文字列を、まるで未知の昆虫でも観察するかのように見つめている。
「その『期待値』、誰が保証しているんですか?」
「あ? 運営会社に決まってんだろ。景品が取れるまでの平均プレイ回数を、ちゃんと店内に掲示してるらしい」
「なるほど」
統崎は小さく頷いた。
彼のガラス細工のような瞳が、初めてかすかな興味の光を宿す。
「面白い。期待値は、もともと賭けの『機会の価値』を計算するために生まれた概念です。17世紀、クリスティアーン・ホイヘンスという数学者が、どうすれば公平な賭けが成立するかを体系的に論じた。その根幹にあるのが期待値です」
統崎の口から、また馴染みのない外国人の名前が飛び出す。
「つまり、この事件は…。現代に蘇った、古典的な賭博問題と言えるかもしれませんね」
熱田は、その言葉の意味を測りかねて、ただ統崎の涼しげな横顔を見つめるしかなかった。
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