第二章
第8話 新任教官
東京オリンピックの返納が決まった翌週、夏季休暇を前にして、僕たち生徒はどこか浮き足立っていた。
短縮されたとはいえ、八月には夏季休暇がある。同期たちは帰省して、久しぶりに家族と会えるのを楽しみにしている。
「前期の成績、出たぞ!」
英語の授業が終わった直後、誰かが廊下で叫んだ。皆が一斉に、わっと駆け出す。
が、僕を含めた“隔離部屋”の面子は、授業用具をゆっくりと片づけていた。謹慎で引かれた素行点が席次にどう影響するか不安だったから。
「君たちは、見に行かないのかい?」
もたもたしていた僕たちに、七月に着任したばかりの英語教官が声をかけてきた。
「心の準備をしているのであります」
どう答えればいいか迷っていたら、馬場が代わりに答えてくれた。
「幸運を祈るよ」
教官は笑いながら教室を出て行った。
僕たちが掲示板の前に着いたとき、もう人はほとんど居なかった。薄暗い廊下は墨のような、カビのような匂いがした。
四人で意を決して掲示板の前に立つ。恐る恐る掲示板を見上げると、順位は前と変わっていなかった。かなりマシになった水泳が、他の成績をカバーしてくれたのだろう。僕は胸を撫で下ろした。これで父に叱られなくてすむ。
下と見林さんは二十位ほど、馬場は三十位ほど順位を下げていた。
「よう、優等生。でも、ユキも補講だぞ」
ほっとしていた僕の肩を、馬場が軽く叩いた。補講者の一覧を、真剣な顔の下が見上げている。部屋で一番順位が悪かった馬場が、誰よりも明るく見えるのはなぜだろう。
補講は、謹慎期間中に欠席した海での水練と、砲術の火薬取り扱い。そして、なぜか英語にも、僕たち四人の名前が書かれている。
「今年は、帰省できないな」
下の表情は暗かった。歳下の兄弟たちを泳ぎに連れて行くのが楽しみだと話していたのを、僕は思い出した。
まだ補講の日程は未発表だが、日中戦争の影響で短縮された休暇が、さらに短くなることは確かだった。東京に 帰省をするのは難しいだろう。
下の落胆とは反対だけど、僕は父の顔を見なくて済むことに、少しだけほっとしていた。
「金曜日の授業後、補講説明は浅見教官ですね」
見林さんが、時間と場所を手帳にさらさらと書きつける。
「後で見せてな」
馬場はそう言って、食堂の方へ消えていった。 僕も急いで日時を写し、馬場のあとを追った。
説明にあたる浅見教官は、さきほど笑いながら教室を出ていった英語の新任教官だった。
初回の授業、浅見教官はポマードで完璧に撫でつけた髪、黒縁の眼鏡、皺ひとつない軍服姿で現れた。 厳しそうな教師が来たと、僕たちは自然に背筋を伸ばした。
教卓に立った浅見教官は、冷たい目線を教室中に滑らせたあと、指をぱちんと鳴らして眼鏡を外した。 硬く結ばれていた口元がふっと綻び、流れるような英語が飛び出す。
「こんにちは、諸君。これから小さな告白をしよう。この眼鏡は――完全に伊達です」
浅見教官は眼鏡を机に置き、右手で前髪をくしゃりと潰して、微笑んだ。
「この髪型も嘘。……さて、何が言いたいか分かるか?」
教室がざわつく。浅見教官は教室を見回した。さっきとは違い、その視線には悪戯めいた光が宿っていた。
「最初に見えるものが真実とは限らない。戦争でも、人生でも、言葉でも――同じことだ」
チョークを手に取り、黒板いっぱいに大きく書く。
―― Let’s begin with a lie.(嘘から始めよう)
「さあ、英語の時間だ」
その瞬間、クラス中の心が掴まれた。その中には僕もいた。
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