第7話 わだつみに抱かれて
「告発してもきっと握り潰される」
下が唇を噛んだ。馬場も悔しそうに目を伏せたが、ふと顔を上げて言った。
「……俺たちが出世して、事を表沙汰にしようぜ。たとえ何年かかっても、だ」
馬場は僕の方に目を向けた。真剣な目だった。
「特に中山は、家柄良し、成績よし。末は大臣様も夢じゃないだろ?」
「そんな器じゃないよ……」
僕は、蚊の鳴くような声しか出せなかった。
「中山、お前さぁ、自分のこと、ほんとに分かってんのか?」
下の声が少しだけ荒くなった。強い口調から苛立ちが伝わってくる。
「入学した頃はモヤシで、今は百貫でぶ、だよ……」
僕が苦笑まじりに言うと、馬場があきれたように笑った。
「おいおい、馬鹿言うなよ。悔しいけど、見た目だけで考えれば、モテるのはお前が一番だぜ? ちなみに俺は二番な」
見林さんが、静かに亀嶋の日記を取り出し、僕たちの前に置く。
「人の日記を見るのはどうかと思うが……中山くんに読んでもらいたいことが書いてある。きっと亀嶋くんも、許してくれると思うんだ」
開かれたページには、僕のことが書かれていた。
『──中山にはあだ名がない。
「ユキ」って呼べれば二文字で済むんだけど、あいつは女みたいな名だって嫌ってる。
入学した頃はともかく、今の中山を見て女々しいって思うやつなんていないだろ。
背も俺より高くなったし、体格だって立派だ。
勉強も、実技も、水泳以外なんだかんだで全部上手くこなしている。でも中山は、全然偉そうにしないし、誰にでも優しい。
「ユキ」って名前は、女々しさじゃなくて、あいつの優しさのことを言ってるんだと思う。
本人が嫌がることはしたくないから、無理には呼ばないけど。
でも、いつか「ユキ」って呼べたらいいな。
見林さんにもあだ名をつけたいけど、そっちは全然思いつかない。
そのうち、馬場に相談しようと思う。』
日記を読んで、僕はまた泣いてしまった。
手で拭いながら、涙をこぼすのはこれが最後にしようと思った。
鼻をすすりながら、「これからはユキと呼んでほしい」と皆に頼んだ。
「よろしくな、ユキ」
馬場が右手を差し出した。僕はその手を握り返す。「俺もよろしく、ユキ」と下も続いた。
「じゃあ、私も。ユキくん」
年長者なのに呼び捨てにできない見林さんがおかしくて、みんな笑った。
点呼の時間になってもまだ目が赤かったので、教官が妙な顔をしたが、手の傷のせいにしたら「養生しろよ」と言われて終わった。
それから二週間後、日中戦争の激化に伴い、政府は東京オリンピックの返還を決めた。
亀嶋の夢だったオリンピックは、戦争があっさりと飲み込んでいった。
時流の中で、僕たちはちっぽけな存在かもしれない。でも、五輪は中止になっても亀嶋の真実を世に出すまでは戦い続けよう。僕は拳を固く結んだ。
――スマートで、目先が利いて、几帳面、負けじ魂。これぞ船乗り
亀嶋の机にあった標語を思い出す。
僕に欠けていた闘争心——それが、まだ小さいけれど、確かに芽吹いているのを感じる。
わだつみに抱かれたこの島で、僕はどう成長し、ここを離れたあとどう生きればいいかを考えていた。
「僕はどんな大人になるんだろう」
潮の匂いが風に乗って校舎のそばまで漂ってきた。僕は顔を上げて海を見つめた。
瀬戸の海は、外界の争いなど無縁のように、どこまでも凪いでいた。
(第一章了)
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