第2章 わたしの世界?⑤

「はぁーつかれたぁ……」


 バタン、と乱暴にドアが開いて、睡がキッチンに入ってきた。


「おつかれ」


「ほんとよぉ……あのおばさん話長いったら」


 ぶつぶつと文句を言いながらこちらにやってきた睡は、わたしが手に持っているものを見てぱちぱちとまばたきをした。


「どうしたの? それ」


「ああ……これ? さっきバクさんが作ってくれたの。ラズベリーのシャーベットだって」


 ラズベリー、と聞いて睡は眉間に皺をよせる。


「……あの人、なにか言ってた?」


 わたしは少し迷ってから口を開いた。


「ええと、なんか呪文みたいなのを唱えてたよ。いちをじゅうとなせ、とか……あ、魔女の九九? とか言っていたかな。 それが解ればわたしも一人前だって」


 それを聞いて睡は、なぜだかますます不機嫌になった。


「……え、なんか悪い意味とか……?」


 不安になって恐る恐る訊ねたわたしの手から睡はゴブレットをひったくると、溶けかけた中身をごくごくと飲み干した。


「魔女の九九はゲーテのファウストに出てくる言葉。色々意味はあるけど、たぶんあの人が言いたいのは存在の根源的運動についてだと思うわ」


「う、うん……??」


 言っている意味がさっぱり理解できずに盛大に頭の上にはてなマークを飛ばすわたしに、睡はゴブレットをとん、と作業台の上に置いて言った。


「存在の根源的運動ってのは……うーん……そうね、自己否定って言葉はわかるわよね?」


「馬鹿にしないでよ。自分がダメだとか、自分が嫌いとかそういう風に思うことでしょ」


 わたしがむっとして反論すると、睡は「よろしい」とまるで教師のように頷いた。


 「それを自分で違うってはっきりと跳ねのけ続けることで、人としてレベルアップできるっていう考え方のことよ」


 まあざっくりした説明だけどね、と肩をすくめる睡の言葉にわたしはどきりとした。


 自分をだめだと思うことについて『自分で』違う、と跳ねのける。


 それができるようになれば――たしかに、一人前の大人になれるのかもしれない。


「それにしてもラズベリーってのが気に食わないわ」


 考え込むわたしをよそに睡はふん、と鼻を鳴らす。


「ラズベリーにも意味があるの?」


「そうよ。ラズベリーにはとげがあるでしょ? ヨーロッパでは古くから悪魔や魔女が入ってこられないようにする結界として使われたりしてたのよ」


 バクさん、やっぱりわたしのこと嫌いなのかしら――わたしはママの子供だから。

そうつぶやく睡はひどく悲し気だった。


(ママみたいに……?)


 ……やはり睡にお母さんがいない理由はなにかあるのだろう。でも――。


 「うーん……。違うと思うなぁ。だってバクさんはこの店のキッチンでこれを作ってくれたんだよ? もし結界だっていうのなら、この店の中に悪いものがはいってこれないようにしてるっていうことじゃないかな」


 バクさんと睡にどんな経緯があって叔母と姪の2人きりでこの店を営んでいるのか、わたしは知らない。


 けれどまだたった2ヶ月しか傍で見ていないわたしでもバクさんが睡を嫌うわけがないとわかるくらい、ふたりの間には深い絆があるように見えた。


「……そうかしら」


「そうだよ」


 不安そうに揺れる睡の瞳にはうっすらと涙の膜が張っていた。


「それにここは結界の中だから、なにかあってもわたしだけじゃなく睡だって守られるはず」


 わたしの言葉に、睡は目を見張る。


「私も、守られてる――?」


 涙の膜は、雫となって零れ落ちることはなかった。


 ぐっ、となにかに頼るように胸につけたブローチに手をやると、一度目を閉じて、それからにこっと笑顔をみせる。


「そうね! それにもしバクさんが私のことを追い出そうとしたら、逆にこの店を乗っ取ってやるわ!」


 その笑顔はどこかバクさんに似ていて、2人の血が確かにつながってることを感じさせた。

 睡はそう言うとエプロンを手早く外してわたしの手を引く。

「さ、お手伝いは今日はおしまい! ここからは魔女修行の時間よ! ……あ、そうだ。その前にこれ、あのおばさん……佐倉さんだっけ? からお菓子の予約あったからバクさんに渡しておいて!」


「あ、ちょ、ちょっと」


 睡は泣きそうになっていたのをごまかすように一気にまくしたてるようにそう言って、日付とお菓子の名前が書かれた予約用紙をわたしに押し付けてきた。


 わたしはあわててそれを折りたたんでエプロンのポケットにしまう。


 そしてそのまま睡にひっぱられるように、わたしは扉から植物が生い茂る裏庭にとびだした。

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