vol.7 金蕊室の秘密 女王蜂が生まれる場所

 春、新たな風が吹く季節。

 物語の第8話「カガヤキに満ちた部屋」では、静かに開かれた“金蕊室きんずいしつ”の扉が登場しました。

 そこは、誰もが気軽に入れる場所ではありません。選ばれた者だけが通される、秘密の間。

 未来を託す者が、ひとり静かに育まれる――そんな、始まりの場所です。

 この部屋が象徴するのは、ミツバチの世界における「王台おうだい」という特別な空間。そこには、女王蜂のすべてが詰まっているのです。


◆ 女王蜂と働き蜂 ほんとうは“親子”

 物語の中では、働き蜂たちは個々の意思を持つ“社員”として描かれています。名前があり、部署があり、性格もバラバラ。まるで他人のように見えるかもしれません。

 けれど、実際の巣ではそうではありません。巣にいるすべての働き蜂も雄蜂も、たった一匹の女王蜂から生まれた“子どもたち”。

 コロニー(群れ)は、一つの家族。その中心にいるのが、母としての女王蜂なのです。

 新入社員たちの姿を見て「若い働き蜂が羽化した直後のようだ」と思った方もいたでしょう。まさにその通り。彼女たちは、女王の意志のもとに生まれ落ちた“希望のかけら”でもあるのです。


◆ 空の契約と、産卵の奇跡

 若い女王蜂が最初に行うのは、一生に一度だけの「交尾飛行」。青空の高みで、十数匹の雄蜂と空中で出会い、契約のように命をつなぎます。

 そのとき体に蓄えた精子を、生涯にわたって使い続け、1日に千を超える卵を産み続けます。巣へ戻ったあとは、もう外の世界には出ません。

 ただ、命を生み続け、群れを支え、家族を育てる。それが、女王蜂の一生なのです。


◆ 金蕊室=王台 そして“世代交代”の真実

 春になると、巣の中では次の世代を育てるために、いくつもの王台が作られます。そこが、物語に登場した“金蕊室”のモチーフです。

 王台からは複数の女王が生まれますが、残るのはたった一匹。最初に羽化した女王は、他の王台を壊し、まだ生まれていない姉妹たちの命を絶ちます。もし同時に生まれてしまえば、彼女たちは出会い、命を賭けた闘いを繰り広げる。

 鋭いアゴで突き、振り払う。生き残った一匹だけが、巣を継ぐ“真の女王”となるのです。

 物語では、この選別の過程を、静謐な空間として描きました。金蕊室はあくまで“継承の儀”として表現し、現実の激しさをそのまま映すことはしませんでした。

 けれど、現実の巣の中では、王台は一つではなく、いくつも並び立ちます。命と命がぶつかり合い、新しい世代を迎えるその瞬間には、激しさと美しさが同居しているのです。

 その真実の一端を、筆者は“裏庭”という別の舞台で描きました。本編の金蕊室ではあくまで静かに、裏庭では命の火花として。

 ひとつの金蕊室に三人の女王候補を置いたのは、現実の王台を象徴的に凝縮した物語上の脚色でした。

 そして、あの戦いの果てに残ったのが――白洲葉月。彼女が新たな女王として、すなわち新社長としてアベリアの未来を導く姿に、女王蜂の継承の真理を重ねたのです。

 本編が儀式のように静かであったのは、あの光景を“神話”として語りたかったから。裏庭の熱い闘いは、その神話の裏にある“生きた現実”だったのです。


◆ 女王蜂を育てる“秘密のミルク”――ローヤルゼリー

 では、なぜその一匹が“女王蜂”になるのでしょうか。それを決めるのは、生まれ持った才能でも、偶然でもありません。

 答えは、“食べ物”にあります。女王蜂の幼虫だけが、生まれてすぐから「ローヤルゼリー」という特別な栄養を与えられ続けます。この乳白色の濃厚な物質は、若い働き蜂の体から分泌される、いわば“生命のミルク”。ローヤルゼリーを与えられ続けた幼虫だけが、女王蜂へと成長できるのです。

 物語の中で、金蕊室にいる白洲葉月が静かに口にした一杯の飲み物。


 手元には、淡く金色に光る液体が注がれたカップ。

 とろりとしたその飲み物は、ひと口で喉にしっとりと広がり、体の芯にまで染み込むような深い甘さを持っていた。


 この描写は、まさにローヤルゼリーの象徴でした。その一杯には、時間と想い、そして“選ばれし者”への祝福が込められていたのです。


◆ 女王蜂は“支配者”ではない

 最後に、ひとつだけ伝えておきたいことがあります。

 女王蜂は、コロニーの“支配者”ではありません。働き蜂に命令を出すことも、指図をすることもない。彼女は“存在するだけ”でいいのです。

 女王の放つフェロモンが巣のすみずみに届き、群れ全体に安定と秩序をもたらす。そう、中心にいるからこそ、まわりが回る。

 その静かな重力のような存在――それが、女王蜂の真の役割です。


=命を照らす、中心の光=

支配ではなく調和。命令ではなく共鳴。

群れを導くのは、声ではなく、香りのような“存在の力”。

中心が穏やかであるほど、世界は静かに輝く。

それが、女王蜂が教えてくれる「リーダーシップ」のかたち。

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