第7話 ヤミを照らす光
晩秋の朝。ミーティングルームに漂う空気は、どこか冷え込んでいた。
発売からひと月が過ぎても、「レヴァン」の売上は伸び悩み、社内ではすでに撤退論が囁かれている。会議の場を包む重苦しさは、窓の外の曇天と同じ色をしていた。
「これまでの実績を見ても、正直、厳しいですよね。」
企画戦略室の長谷このはさんがそう口にすると、誰もすぐに反論できなかった。沈黙の中で、私はそっとノートを開いた。そこには、試作品を囲んだあの日の写真が貼られている。
(これは、ただの流行り物じゃない。時間がかかっても、きっと誰かの役に立てる。)
信じていた気持ちは、心の奥でまだ消えてはいなかった。けれど現実は、期待よりも冷たく、先の見えない霧の中に立たされているようだった。
その頃、世界は静かに、けれど確実に揺らぎ始めていた。最初は、遠い国のニュースだった。
原因不明のウイルス。感染者は数百人、やがて数千人へと増えていく。
「大げさに言ってるだけ」「すぐ収まるだろう」――多くの人がそう思っていた。
だが、その期待はすぐに裏切られた。感染は国境を越え、都市を飲み込み、人々の日常を奪っていった。誰かの咳、手すりに残った指先の跡、すれ違った瞬間の吐息。目に見えない恐怖が、街の隅々にまで忍び込んでいく。
空港は閉鎖され、列車は止まり、道路は封鎖された。スーパーの棚は空になり、マスクも消毒液も消えた。人々は家に閉じこもり、街からは足音も笑い声も消えた。響くのは携帯の通知音と、救急車のサイレンだけ。
経済は凍りつき、工場は止まり、物流は寸断される。
「もう元には戻れないのではないか」――そんな不安が、世界中を覆った。
やがて人々の心にも影が差した。互いを疑い、避け、罵り合う声がネットにあふれ、社会は少しずつ分断されていった。まるで世界全体が軋む音を立てながら崩れていくようだった。
アベリアグループの社員の間でも、不安は広がっていた。だが、奇妙なことに気づく者もいた。
「うちの社員、みんな元気じゃない?」
「体調崩してる人、ほとんどいないよね。」
桐島さんがアンケートと健康調査データを照らし合わせ、ある仮説に辿り着く。
「……レヴァンを継続的に摂取している社員に限って、体調不良の報告が極端に少ないの。」
その一言は、火花のように社内を走った。
「私も感じてた!」
「そういえば花粉症が軽くなってたの、まさか……?」
社内SNSに上がった声は瞬く間に共感を集め、投稿はランキングのトップに躍り出る。
翌朝には健康系まとめブログが「ある企業で話題の謎フード」と取り上げた。
一度火がつけば、あとは早かった。
「免疫を支えている?」
「自然由来の希望か?」
そんな見出しがネットニュースを飾り、インフルエンサーたちがレビューを投稿する頃には、すでに在庫は尽きていた。
オンラインショップはアクセス過多でサーバーダウン。問い合わせの電話が鳴り止まず、社内は嬉しい悲鳴に包まれた。
「注文が1時間で一週間分を超えたって!」
「やばい、こんなことある!?」
フロアがざわめき、歓声が上がる。
私はその熱気の中で、ひとり小さく息を吐いた。
(本当に……動いたんだ。)
私の提案が、きっかけになったかもしれない。そう思いたかった。
失敗ばかりの世界で、ようやく芽が育ち始めている――胸の奥が、じんわりと温まった。
だが、水面下では別の動きが忍び寄っていた。
ある日、役員会に届いた一通の書簡。
『当社はアベリア・グループの将来性に深く共感し、友好的買収を提案する所存でございます。
──ヴェスパ・グローバルホールディングス』
重苦しい名が響いた瞬間、会議室の空気は一変した。
広報部の葉山りんさんが資料を示す。
「旧・百蔵財閥を母体とする国内最大級の企業連合です。重工、医療、農薬、ライフサイエンス……数十社を束ね、今や世界五大グループの一角を占めています。やり方は一貫しています。新興企業を買収し、技術を取り込んでから切り捨てる。いわば捕食型の成長戦略です。」
その言葉に、私の脳裏に過去のニュースが蘇った。革新的な医療素材を開発したベンチャーが、買収からわずか半年で解体された記事。
同じことが――アベリアに。
「現在、ヴェスパが最も注目しているのは“免疫を高める自然由来素材”。つまり……レヴァンです。」
場の空気がざわめいた。
「これは、敵意ある買収に等しいわ。」
桐島さんが唇を噛む。
第四課の面々は顔を揃え、早乙女さんが声を上げる。
「断りましょう。こんなタイミングで乗っ取られるなんて、ありえません。」
「でも……役員の方針は……?」
沈黙。誰も視線を合わせられない。
私は立ち上がった。
「私たちが作ってきたもの、信じてくれた人たち、守りたいです。」
その言葉に、ひとり、またひとりと頷きが広がった。
会議室の扉が開く。
深い墨黒のスーツを纏った一人の女性が現れた。
その一歩だけで、空気が数度冷える。冷ややかな視線が部屋を掃き、彼女は静かに腰を下ろした。
「さて、交渉を始めましょうか。」
場の緊張が張り詰める。私は視線を逸らさずに彼女を見返した。
「……こちらの『覚悟』、お見せします。」
火花のように交差する視線。交渉は、すでに始まっていた。
「わたしたちは……レヴァンを、ただの健康食品として作ったわけじゃありません。」
私は胸に手を当て、言葉を続けた。
「それは、この不安な時代に、誰かの『大切な明日』を守るものだと思っているからです。」
祖母の笑顔。あの日、差し出した小さな瓶。“私でもできることがある”と気づかせてくれた瞬間。その記憶が、私の声を支えていた。
「信頼を、利益だけで売り渡すことはできません。それは、アベリアの魂を否定することだからです。」
言葉を吐き出すたび、胸の奥が熱くなる。沈黙の会議室。その空気を破ったのは、仲間の声だった。
「……そうだ。私たちは、守りたいから働いてるんだ。」
第四課の早乙女さんが、椅子をきしませて立ち上がった。
その隣で、経理の柚木さんも静かに頷く。
「数字ばかり見てきたけど……信頼を売るような真似はしたくない。」
次々と声が重なっていく。
「商品を届けた先のお客さんの顔を、忘れたことなんてない。」
「私も、この仕事に誇りを持っている。」
視線が私の背中に集まり、熱が部屋の中心へ渦を巻く。孤独に戦っていると思っていたのに――私は、一人じゃなかった。
雀子さんが、氷のような声で口を開いた。
「……信頼は理念です。しかし、それで会社は回りますか?」
その言葉は鋭く、全員を凍らせた。
「理念だけでは、誰も救えなくなる。事業の継続性こそが基盤です。」
私は息を吸い込み、一歩前へ踏み出した。
「だからこそ、私たちは努力します!」
声が震えないように、爪が掌に食い込むほど握りしめた。
「理念を現実にするために、知恵も、技術も、仲間も――すべてを尽くすんです。目先の利益に流されない未来を、私たち自身でつくるんです!」
その瞬間、会議室に拍手が広がった。小さな拍手がひとつ、ふたつ。やがて大きなうねりとなり、全員が手を打ち鳴らす。それは、賛同であり、覚悟の宣言だった。
雀子さんは黙り、拍手をただ聞いていた。やがて、その瞳にわずかな光が宿る。
「……あなたの言葉には、魂があった。」
深く息を吐き、彼女は宣告する。
「買収計画は白紙に戻します。」
場がどよめき、安堵と歓声が混じる。
けれど雀子さんはすぐに続けた。
「ただし、正式な業務提携を視野に、今後も協議を続けたい。」
彼女の声は依然冷静だったが、先ほどよりわずかに柔らかかった。
最後に私を見て、静かに告げる。
「蓮見さん。今の時代に必要なのは、あなたのように“信じる力”を持つ人間かもしれない。」
その言葉に、私は喉の奥が熱くなるのを感じた。涙が滲むのを必死に堪えながら、深く頭を下げる。
口元がわずかに緩む。
「また、どこかで。」
扉が閉まると同時に、会議室に拍手が響いた。それは恐怖に打ち勝った者たちへの祝福であり、信念を貫いた一人の社員への賛辞だった。
私は深く頭を下げた。胸には確かに灯されたものがあった。
――守るだけでは終わらない。
この手で、次の世界をつくらなければ。
仲間たちの瞳に、同じ光が宿っていた。かつての安全な巣から、一歩踏み出すときが来ている。
やがて、次の春。六角形のビルに新しい風が吹き抜ける。
それは、静かに始まる「分かれ」の予兆だった。
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