第6話 シズクの行方
「……以上が、今回のポルトガル出張での成果です。」
最後のスライドへ切り替えると、モニターには琥珀色に光る小瓶の写真が映し出された。室内に一瞬の静寂が落ちる。営業第四課の会議室。壁沿いの観葉植物、窓から差し込む初夏の光が資料の角をやわらかく照らしていた。
私は深く息を吸い、モニターから視線を戻した。前方にはチームリーダーの桐島さん、そして第四課の仲間たち。
「……すごいじゃない。現地でそこまで踏み込んだ交渉をしてくるなんて。」
最初に口火を切ったのは桐島さんだ。手元の資料を丁寧にめくり、ふむ、と頷く。
「プロミリア、だったわね。日本ではまだ無名だけど、抗菌性と保湿性が高い。それにこの色味……健康食品との親和性が高そうね。」
「はい。ポルトガル法人ソル・イ・フロールと半年の独占契約を結びました。」
抑えた声で答えながら、胸の奥がじんわり熱くなる。自分の目で見て、感じて、交わした約束を仲間へ届けられることがただ嬉しかった。
「半年……じゃあ、その間に形にしなきゃダメってわけか。面白いじゃん!」
後ろから早乙女さんが身を乗り出す。新しい遊び場を見つけた子どものように目が輝いている。
秋庭さんは手帳に走り書きをして顔を上げた。
「その期限、逆に燃えるね。」
口元には挑戦を歓迎する笑み。
「ノーザンリーフのブルースノーと合わせたらどう? 香りに奥行きが出るし、新商品の核になりそう。」
「サンテヴィーダのハーブとのブレンドも良さそう。癒しとか、免疫とか……。」
言葉が次々と飛び交う。そのひとつひとつが私の中で火花になった。プロミリアの深い香りに、日本の風土が育んだ優しさを重ねたら――どんな価値が生まれるだろう。
一滴のしずくが、心を揺らす。異国の森から運ばれてきた未来の種のように。
「じゃあ、動きましょう。」
桐島さんが静かに立ち上がる。場の空気がぴんと張り、背筋が伸びた。
「蓮見さん、あなたが主担当。ノーザンリーフとサンテヴィーダ、両方の連携をまとめてちょうだい。」
はっと顔を上げると、まっすぐな視線が私を射抜く。信頼の色をたたえたまなざしに、胸が強く打たれた。
「……はいっ。」
立ち上がり、深く頭を下げる。これは期待であり挑戦。誰かを待つのではなく、自分の手で未来を形にする機会だ。
ノーザンリーフ農園に着いたのは、肌寒さの残る早朝だった。薄い靄、朝露に揺れる葉。温室に入ると、甘酸っぱいブルーベリーの香りがふっと心を解きほぐす。
「おかえりなさい、蓮見さん。」
ガラス越しの陽光を背に、稲城さんが微笑む。淡いブルーの作業着、ひとつに結んだ髪。前より少し柔らかく、そして頼もしく見えた。
「ポルトガルはどうだった。」
「はい。とても刺激的でした。……お話したいことが、山ほどあります。」
私が笑うと、稲城さんも目を細めて頷く。そのとき――温室の奥で人の気配。剪定バサミを下ろし、顔を上げた横顔に思わず足が止まる。
「……新海さん?」
新海さんは少し照れたように笑った。
「……久しぶりだね。」
「戻ってきたんですか。」
「ええ、彼から連絡があってね。」
と、稲城さんが添える。
「もう一度やり直したいって。だから一緒にやってるの。今度こそ、逃げないって言ってた。」
私は静かに頷き、まっすぐ手を差し出した。
「じゃあ、一緒に。いい商品を作りましょう。」
新海さんはしっかり握り返し、「もちろん。」と短く。照れくさそうでも、その握手に迷いはない。
私はカバンのポケットから小さなガラス瓶を取り出す。陽に透けて、濃い琥珀色が揺れた。
「……これが、ポルトガルで見つけた“しずく”です。」
ふたりが顔を寄せる。栓を外すと、甘くスパイシーで薬草めいた複雑な香りが広がった。
「〈プロミリア〉。現地で“癒やしの樹液”と呼ばれています。抗菌性と保湿性に優れていて、古くは傷の治療にも使われたそうです。」
ふたりは言葉を失い、香りに耳を澄ますように静かに息をした。
「新しい核になるかもしれません。でも、それを活かすのは私たちの手です。」
声に、強さと希望が宿る。
「日本で育った素材と、ポルトガルからのしずく。それを、ここノーザンリーフで“かたち”にしたいんです。」
稲城さんは瓶にそっと触れた。
「……確かに、ただの素材じゃない。命みたいな輝きがあるね。」
「それに応えられるよう、やらなきゃ。」
と、新海さんの真っ直ぐな声。
温室を抜ける風が葉を鳴らした。新しい季節の始まりを告げるように。
午後、私は社用車を降り、サンテヴィーダ農園へ。ゆるやかな坂を上るとミントの香り。木陰で草を編むスタッフ、ベンチで本を読む親子。誰の指示もないのに、それぞれのペースで“ここにいる”。
「めるさん!」
木のアーチの下で手を振るのは小山さん。リネンのエプロン、稲穂が揺れる頃の空みたいな笑顔。
「また来てくれてうれしいなあ。忙しいんじゃないの。」
「ちょっと相談があって……見てもらいたいものがあるんです。」
鞄からサンプル瓶を差し出す。
「ポルトガルで出会って、見た目も香りも面白くて。何かコラボできたらって。」
美遥さんは栓を開け、鼻先を近づけた。ミントと柑橘の間のようで、どこかスパイシー。目を閉じ、音楽を聴くみたいに香りを味わう。
「……すごく静かなエネルギー。ラベンダーとも違うけど、落ち着くね。」
「たとえば、どんなものに合いそうですか?」
と、私。
「ハーブティーにも、スキンケアにも。香りが尖っていないからブレンド向き。むしろ、強い香りの仲を取り持つ“バランサー”かも。」
「バランサー……。」
「じゃあ、最初のプロミリア商品がここから生まれたら素敵じゃない。」
テラスを指さし、立ち上がると駆け出して行った。
「試そう。ハーブ、摘んでくるね。」
レモンバーベナ、カモミール、少しのタイム。プロミリアと一緒にガラスのポットへ。湯を注ぎ、静寂ののち、ふわっと立ちのぼる香り。
二人でカップを手に取る。まだ湯気が揺れるうちに、一口。
「……やさしいね。」
と、美遥さん。
「ミントより丸くて、レモンほど甘くない。舌の上で、すっと風が抜けていく。」
「確かに、“静かなエネルギー”ってこういうことかもしれませんね。」
と、私。
「うん、心を整えてくれる感じ。頑張る前でも、終わったあとでも、そっと寄り添ってくれる。」
「香りも味も、主張しすぎないのに、印象が残る……。ああ、“バランサー”って、味にも出るんですね。」
「……これは、いけるかもしれない。」
私がつぶやくと、美遥さんはやわらかく笑った。
「あなたのやりたいこと、分かる気がする。ノーザンリーフと一緒なら、すごくいい形になるよ。」
その頃、新海さんはサンプルを抱えて開発室へ。ガラス張りの小さなラボ。標本が並ぶ壁、中央の作業台に瓶がひとつ。
「……これは、すごい代物だな。」
香り、粘度、色合いを確かめ、微量ずつ既存素材と合わせる。果実エキスに混ぜれば甘みが立ち、ハーブと合わせれば芳香が際立つ。
「単なる保湿でも防腐でもない。調整次第で、喉や粘膜への働きも期待できるかもしれない。」
昼夜を忘れて試作と分析。差し入れを持ってきた稲城さんが微笑む。
「研究に集中してるのね。」
「……ああ。本当に面白い。日本じゃまず手に入らない。」
(――この子、目のつけどころが違うのよね。)
稲木さんはそっと新海さんの背中を見つめていた。
そして数週間後。
「稲城さん、味見をお願いします。」
小瓶の一滴をスプーンで。まろやかな甘さのあと、喉の奥にすっと清涼感。
「……なにこれ。美味しい。喉がすごく軽くなる。」
「プロミリアと、うちのブルーベリー。それにサンテヴィーダのハーブを少し。」
「これでいけそうだわ。」
新海さんの瞳に確かな手応えが灯る。
試作品はアベリア本社、サンテヴィーダ、そしてポルトガルのソル・イ・フロールへ送られた。月曜午前十時、オンライン会議が始まる。本社からは私と桐島さん、第四課の面々。画面にはサンテヴィーダの小山さん、ノーザンリーフの稲城さんと新海さん。少し遅れてポルトガルからカタリアさんも入った。
「それでは、開けますよー。」
私の掛け声で一斉に封を切る。果実の甘みとハーブの爽やかさが部屋に満ちる。一滴を口に含むと――
「んっ……これ、美味しい……。」
「喉がすごくすっきりする。」
「なのに甘さがしつこくない。不思議な後味ね。」
感嘆が画面越しに重なる。カタリアが小さく頷く。
「プロミリアの良さをよく引き出したわ。輸出しても誇れるわね。」
「素材は全部自然由来。保存料も添加物もなし。口にした瞬間、農園の風景が立ちのぼるようにしたかったんです。」
と、新海さん。
「保存料なしで、香りがここまで残るなんて……最初に試食したとき、畑の匂いがしました。新海さんのラボで育った空気ごと、閉じ込めたみたいで。」
と、桐島さんが静かに続ける。控えめな声が、素材に込めた想いをいっそう浮かび上がらせた。
「この商品名、どうしましょうか。」
桐島さんの問いに、少しの静けさ。
私は手を挙げる。
「“レヴァン(revã)”はどうでしょう。」
「レヴァン?」
「私たちが見つけた新しい恵みの、まっすぐな力と美しさにふさわしい音を探して辿り着いた言葉です。ポルトガル語のrenovar(再生)やrevanche(逆転)に響きを寄せ、〈希望の再出発〉を象徴させました。この商品を手に取った人が、少しでも自分を取り戻せますように、という願いを込めて。」
カタリアが微笑む。
「レヴァン……素敵ね。響きも柔らかいし、覚えやすい。」
「想いが伝わる。」
と、新海さんも頷いた。賛同の声が重なり、笑顔が画面に咲く。
「決まりね。」
桐島さんが言う。
「プロミリアを使った、空に届くような商品。“レヴァン”。この名に未来を託しましょう。」
「この一滴で、世界の誰かを癒せたら。」
私がぽつりとつぶやく。稲城さんが頷いた。
「そのために、私たちは育ててるんだもの。……でも、自然はいつも思いもよらない問いを投げてくる。季節は巡っても、同じ実りがあるとは限らない。だからこそ、私たちは作るの。未来を、想像して。育てるのは商品だけじゃない。信頼も、居場所も、人の命も。“レヴァン”が誰かの光になりますように。……ねえ、蓮見さん。そういう仕事、していこうね。」
琥珀のしずくが、色づき始めた葉のように陽へ透ける。静かな輝きが、画面越しの全員の瞳に同じ光を宿した。
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