第六話 星屑の葬送

 アドラー帝国が人類国家の中で最後の希望と言われるような盟主の立ち位置にいるのならば、大陸北西部に位置するレドーム王国は、小国ながらも人類が抱え込む戦線の一部を維持している重要な国であった。


 エルフの森と接する最前線。この小国が未だ滅亡していない理由は、ただ一つ。国そのものが、一人の英雄によって守られているからに他ならなかった。


 国王近衛騎士団長、ガウェイン・オルランド。


 「人類最強の魔導師」――彼がそう呼ばれている理由は、決して広範囲を焼き尽くす魔法を使うからではない。


 むしろ逆だ。彼はその膨大な魔力を全て自らの肉体の強化――筋力、速度、反応、耐久性――に注ぎ込み、一個師団に匹敵するとまで言われる白兵戦能力を発揮する。


 彼の存在そのものが、エルフや魔族にとって無視できない「戦略的抑止力」として機能しているのだ。そう、人類諸国は信じていた。



 その日の朝も、ガウェインは朝日が王城の練兵場を照らし出す頃には、すでに若い騎士たちを相手に汗を流していた。


「立て! その程度の剣閃、エルフの下級兵にすら笑われるぞ!」


「はっ……はいッ!」


 巨木のような腕から繰り出される模擬剣の一撃が、若い騎士の構える大盾を軽々と弾き飛ばす。


 吹き飛ばされた騎士は、それでも即座に体勢を立て直し、師であり、目標である男に食らいついていく。その瞳には、恐怖よりも憧憬の色が濃い。


 鍛錬を終えたガウェインが、汗を拭いながら王都の大通りを歩む。


 夕暮れの市場へ向かう人々の活気、パン屋から漂う香ばしい匂い、そして子供たちの屈託のない笑い声。その全てが、彼が命を懸けて守るべき日常の風景だった。


「団長、今日の剣、見事でした!」


「ガウェイン様、いつもご苦労様です」


 道行く人々は、老いも若きも、彼に畏敬と、そして家族に対するような親しみの入り混じった眼差しを向ける。


 城壁の上を警邏する兵士たちは、彼の姿を認めると、背筋を伸ばし、完璧な敬礼を送る。


「団長、新しい剣の鞘が出来上がってますぜ。あんたの馬鹿力にも耐えられるよう、特別製の合金を打ち込んでおきました」


「そうか。後で取りに行く」


 馴染みの武具屋の親父と、そんな言葉を交わす。


 広場で剣の真似事をして遊んでいた子供が、憧れの眼差しで彼を見つめているのに気づくと、ガウェインはその無骨な手で、少し照れくさそうにその頭を撫でた。子供ははにかみながら、しかし誇らしげに胸を張った。


 彼が愛し、守るべきこの国の、この温かい日常。それこそが彼にとっての全てであり、揺るぎない世界の真実だった。


 その時だった。


「……なんだ?」


 誰かが、空を指さして呟いた。つられるように、王都の誰もが空を見上げる。


 西の空から、見たこともないほど巨大で、そして美しいオーロラが広がり始めていた。


 緑、紫、そして黄金の光が、まるで天女の羽衣のように夜空を彩っていく。それは神々の戯れか、あるいは吉兆の現れか。


 人々は、その荘厳で幻想的な光景に、ただただ息をのんで見入っていた。


 ガウェインもまた、その美しさに一瞬、我を忘れた。


 だが、次の瞬間、彼の全身を経験したことのない悪寒が駆け抜けた。彼の超人的な感覚が、あの美しさの奥に潜む、極微細な魔力の揺らぎを感知したのだ。


 それは、自然現象ではありえない、あまりにも精緻に、そして冷徹に制御された、異質な力の波動。


「――総員、退避ッ! 建物の中に隠れろ! 敵襲だッ!!」


 彼の絶叫は、しかし、あまりにも遅すぎた。


 オーロラのカーテンから、無数の光の粒子が、まるで春の夜に舞う雪のように、静かに、そしてゆっくりと王都に降り注ぎ始めた。


 広場で遊んでいた一人の少女が、そのきらきらと輝く美しい光に魅入られ、恐れもなく掌を差し伸べる。


 光の粒子が、少女の指先に触れた。


 次の瞬間、音はなかった。悲鳴も、苦痛も、何一つなかった。


 少女の身体は、その驚きの表情のまま、内側から淡い光を放ち始めた。


 その輪郭はみるみるうちに透き通った水晶へと変わり、数秒後には、まるで熟練の職人が作り上げたかのような、完璧なクリスタルの彫像へと姿を変えていた。


 夕日を浴びて七色に輝くその像は、あまりにも美しく、そしてあまりにも冒涜的だった。


「あ……あぁ……マリア……?」


 母親と思われる女性が、声にならない声を漏らし、その場に崩れ落ちる。


「馬鹿な……何が起きている……」


 王城の近くでその光景を見ていたガウェインの思考が、初めて現実を拒絶した。


 攻撃ではない。熱も衝撃も、殺意すら感じられない。ただ、静かに、世界が美しい何かに作り変えられていく。


 理解不能な現象が、彼の百戦錬磨の戦闘経験の、その全てを無意味なものに変えていた。


 だが、彼の肉体は、魂は、まだ諦めてはいなかった。


「近衛騎士団! 王都全域に最大出力の物理障壁を展開しろ! 急げ! あれを街に入れるなッ!」


 彼の指令が、魔力通信を通じて瞬時に騎士たちへと伝わる。


 王都の各所に配置された精鋭たちが、一斉に魔力を練り上げ、分厚い魔力の壁を王都の上空に形成していく。


 それは、ドラゴンのブレスさえも防ぎきるという、レドーム王国が誇る絶対の盾だった。


 しかし、その盾も、意味をなさなかった。


 光の粒子は、物理的な質量を持たないかのように、あるいは全く異なる次元を通過しているかのように、魔力障壁を「素通り」し、地上へと降り注ぎ続ける。


「な……ぜだ……防げ、ない……?」


 通信機から聞こえる部下の絶望的な声。そしてガウェイン自身の目にも、信じがたい光景が映っていた。


 障壁を展開しようと天を仰いでいた、信頼する団員の屈強な肉体が、その勇猛な表情のまま、光り輝く芸術品へと変わっていく様が。


 家路を急ぐ商人たちが、荷車と共に。酒場で笑い合っていた傭兵たちが、ジョッキを掲げたまま。愛を語らっていた恋人たちが、寄り添った姿のまま。


 全ての生命が、その営みの一瞬を切り取られた、完璧な美術品へと変えられていった。


(まさか……まさか……エルフの新魔法……)


 それは、彼らにとっての「攻撃」ですらない。汚れたキャンバスを、一度更地に戻すための「下準備」。


 あるいは、新しい芸術を創造するための「素材集め」。そこに、悪意や憎しみといった、人間的な感情は一切存在しない。


 ただ、圧倒的な美意識と、人間を「画材」としか見なさない、底知れぬ侮蔑があるだけだった。


 目の前で、近衛騎士が、驚愕の表情のまま光の像と化す。先ほどまで言葉を交わした武具屋の親父も、頭を撫でた子供も、今頃は……。思考が追いつかない。脳が、目の前の現実を理解することを拒絶している。


 聞こえるのは、風が吹き抜ける音と、無数の結晶が立てる、乾いた摩擦音だけだ。つい先ほどまで喧騒と活気に満ちていた王都が、完全に消失していた。


「う……おお……おおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!!」


 ガウェインの口から、もはや言葉にならない、獣のような咆哮が迸った。




 その頃、アドラー帝国のアストラル学院の一室で、けたたましい警告音が鳴り響いた。


「シオン、これ……!」


 ルナーシアが指さす先、部屋の中央に鎮座する巨大な水晶球が、禍々しいほどの光を明滅させている。


 それは、シオンが学院長の全面的な協力を得て、数日前に設置を終えたばかりの、帝国最高レベルの実験設備――長距離広域魔力センサーだった。


「あなたの魔法の基礎モデルを構築するための、世界中の魔力データを収集する、って目的だったはずよ。こんな異常なエネルギー反応、モデル構築の役に立つの?」


 モニターに表示された異常な波形データを見て、シオンは眉をひそめた。


 観測されたエネルギー量は、理論上の最大値を遥かに超えている。そして何より、その波形パターンが、これまでに観測されたどの魔法とも、どの自然現象とも異なっていた。


「役に立つか、ではない。これは……観測された、一つの事象だ。そして、この波形は……」


 シオンは、従来とは大きくかけ離れている、異質な魔力波をただ静かに見つめていた。


「……仮にこれが魔法によるものだとすれば、これまでに観測された全ての魔法を超越している」


 モニターに表示された波形の発信源座標。そこは、地図上で「レドーム王国」と記された場所だった。

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