第五話 天才を超えた何か

 シオンが提唱したアンサンブル学習――個々の魔導師の学習結果を統合し、一つの高次な知性として機能させる概念。それはレオンとルナーシアの魔法観を再び根底から覆した。


 以来三人は、空き教室にほとんど住み着くようにして、共同での魔法実験に没頭していた。その光景は傍から見れば異様そのものだった。


「いくぞ、二人とも! モデル・レオン、戦闘シークエンス、スタート! 敵の予測軌道に対して、回避パターンを最適化!」


 レオンが叫ぶと、彼の周囲に展開された魔法陣がまるで生き物のようにその形状を目まぐるしく変化させる。彼の役割は、その天性の反射神経と瞬間的な判断力で、敵のあらゆる攻撃パターンを学習し最適化すること。彼の学習データは、主に発動速度と命中精度、そして回避能力に極端に偏っていた。


「待って、レオン! あなたのその軌道、魔力効率が3.14%低下しているわ! モデル・ルナーシア、リソース配分を再計算! エネルギー損失を最小化する補正パスを提案します!」


 ルナーシアの魔法陣がレオンのそれに寄り添うように展開され、二つの幾何学模様が複雑に絡み合う。彼女の役割は、システム全体の魔力消費を常に監視し、最も効率的なエネルギー配分をリアルタイムで計算し補正すること。彼女の学習データは、精密制御と効率性、そして安定性に特化していた。


「二人ともいい感じだ。だがまだ甘い。モデル・シオン、全体を統括する。目的関数を『的の完全な情報的消去』に設定。誤差逆伝播法を用いて全パラメータを再調整。解の収束を開始する」


 シオンの魔法陣が二人の魔法陣を静かに包み込むように展開される。彼の役割は、二人の異なる学習モデルを統合し、威力、効率、速度といった個別の目的関数を超えた、より高次の大局的な最適解を導き出すことだった。


 三人の魔法陣が完全に共鳴し、一つの巨大で複雑なシステムとして機能する。それはもはや単一の魔法ではない。自律的に思考し、学習し、そして進化する『魔法知性体』とでも呼ぶべき存在だった。


 放たれた統合魔法は、訓練用の的をただ破壊するのではない。的の構造的弱点を瞬時に計算し、その原子結合を解き、最小限のエネルギーで的を情報レベルで分解消滅させた。後に残されたのは塵一つない完璧な空間だけ。その光景はもはや魔法というより、物理法則そのものを自在に編集しているかのようだった。


「すげえ......俺一人じゃ、ただ速いだけの魔法しか撃てねえのに」


「私だけでも、ただ効率的なだけの魔法で終わってしまう。でも三人なら......」


 レオンとルナーシアは、自分たちが歴史的な瞬間に立ち会っていることを肌で感じていた。シオンの理論は、個々の魔導師の限界を協力することで乗り越えさせる、全く新しい可能性を示していたのだ。



◇◇◇



 その驚異的な光景を、ローゼン教授は息を殺して遠くから監視していた。学院長の命を受け、彼はシオン・セルシウスの『観測者』としての任に就いていたのだ。


 だが今、目の前で起きていることは、彼の四十数年間の魔導師としての常識と経験を根底から覆す理解不能な現象だった。


(三人の魔法が......連携している? いや違う。あれは連携などという生易しいものではない。......そうだ。あれはまるで一つの巨大な頭脳が三つの身体を同時に動かしているかのような......。融合し、一つの生命体として振る舞っている)


 ローゼンには、彼らが何をしているのか、その原理が全く理解できなかった。しかしその結果がもたらす意味は痛いほど理解できた。あれはエルフの精密魔法も、魔族の破壊魔法をも凌駕しうる、全く新しい魔法体系の萌芽だった。


「学院長にご報告せねば......」


 ローゼンは震える足でその場を後にした。彼の胸中には畏怖と興奮、そして得体の知れない何かに対するかすかな恐怖が渦巻いていた。



 学院長室の重厚な扉を叩くローゼンの手は、焦りと興奮で汗ばんでいた。


「入れ」


 バルサザール学院長の静かな声に応じ、ローゼンは室内に足を踏み入れた。


「ローゼン教授か。その様子、シオン・セルシウスの件かね?」


「はっ。本日、彼の研究において、信じがたい進展が確認されました。もはや私の手に負えるものではございません」


 ローゼンは、先ほど目撃した三人の「アンサンブル学習」について詳細に報告した。個々の魔導師が学習し、その結果を統合してさらに高次の魔法を生み出すという、まるで夢物語のような現象を。


 学院長は報告を聞き終えると、深く目を閉じ長い沈黙に入った。やがてゆっくりと目を開けると、その瞳にはローゼンと同じ畏怖と、そして一つの確固たる決意の色が浮かんでいた。


「ローゼン教授。それはもはや、単なる『天才』という言葉で片付けられるものではない」


「と、おっしゃいますと?」


「彼は、我々が百年前に失った魔法の光を探しているのではない。我々がそもそも持ち得なかった『魔法の真理』そのものに手をかけようとしているのやもしれん。私が直接彼と話す必要がある」



 その日の午後、バルサザール学院長は自ら例の空き教室へと足を運んだ。


 教室に入ると、シオンは一人、黒板に向かって新たな数式を書き連ねていた。レオンとルナーシアは、今日の実験の膨大なデータをノートにまとめている。


「シオン・セルシウス君。少し時間を貰えるかね」


 学院長の突然の訪問に、レオンとルナーシアは驚いて立ち上がったが、シオンは落ち着いた様子で振り返った。


「学院長。何か御用でしょうか」


「君の理論について、少し聞かせてもらいたい。無論、話せる範囲で構わん」


 シオンは学院長を真っ直ぐに見つめた。この老魔導師が、帝国の魔法技術の頂点に立つ人間であり、同時にその限界を誰よりも理解していることを見抜いていた。


「良いでしょう。私の理論の基礎は、この世界の魔法が四つの独立した基底の線形結合で表現できるという仮説に基づいています。そしてそのパラメータは、確率的勾配降下法によって常に最適化され続ける......」


 シオンは四大基底の概念、そして自己進化魔法の骨子を簡潔に説明した。数式を交えたその説明は、従来の魔法理論とはあまりにもかけ離れていたが、同時に圧倒的な論理的整合性を持っていた。


 学院長は黙ってシオンの説明に耳を傾けていた。彼の額には汗が滲み、その表情は驚愕から畏怖へと変わっていった。


(なんと......なんと深遠な理論だ。魔法をここまで数学的に体系的に捉えようとした者がかつていただろうか。これは......天才などという言葉では足りぬ。彼は神の領域を覗く鍵を手に入れたのやもしれん)


 説明を終えたシオンに対し、学院長は震える声で尋ねた。


「君は......君はその理論で人間を救えると本気で信じておるのかね?」


「信じているのではありません。証明するのです。数理モデルによって」


 シオンの淀みない返答に、学院長はもはや言葉を失った。彼は目の前の少年が、歴史を、いや世界の理そのものを変える可能性を秘めた存在であることを確信した。


 学院長は深く一礼し、静かに教室を去った。


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