第9話

 自己流で盛り塩をして一晩寝たら、すっかり気分が良くなった。塩が効いたとは思えないが、昨日あんなに酷かった自己嫌悪は、どうでもいいとは言わないまでも、かなりマシになった。悩んでもどうしようもない。彼女が戻って来ることは、もう無いだろう。くよくよするな柚彦。去る者は追わず。──また、ちょっとだけ凹んだ。


「ユズ~。お前、今日暇か?」

 四限目を終えて帰ろうとしていた時、同じ学科の早瀬に声を掛けられた。少々派手な見た目の、いわゆるチャラ男である。教養課程の選択科目がほぼ同じなので、しょっちゅう顔を合わせる。というか、理系は選択の自由度が低いので、必然的に同じ科目を選ぶことになるわけだが。

「今から合コンなんだけど、来ないか?」

「行かねえよ」

 肩を掴もうとしていた手を透かして即答すると、早瀬は大げさにずっこけるふりをして、本当によろめいて石のベンチに手を付いた。どんくさい奴だ。

「参加する筈だった奴がレポート間に合わなくてキャンセルしてきたんだ。助けると思って来てくれよ」

 掌に着いた汚れを払いながら、早瀬は言い募る。どうせ引き立て役だろう。嫌なこった。

「無理だって。今日はバイトが入ってるんだよ」

 言いながら、実験で濃硫酸の瓶を割ったのはこいつだったと、ふと思い出した。またもや記憶が走馬灯のように流れていく。

「聞いたぜ、お前、彼女と別れたんだろ。淋しい夜は昨日までにして、一緒に新しい恋を見つけに行かないか」

「うるさい」

 余計なお世話だ。心を読んだみたいに話題に出すな。それに、何だってハロウィンの翌日に合コンなんかするんだ。

「昨日は満席だったから一日ずらしたんだ。当日だからキャンセル出来なくてさ、頼むよ。この通り」

 勝手な奴だ。拝み倒されたところで、今はとてもそんな気分にならない。ちょうど近くを通りかかった、顔だけ知っている同じ学年の奴を捕まえて生贄に差し出し、柚彦はその場を逃げ出した。


 早瀬のせいで帰りが遅くなり、アパートの近くまで来た時には、開店時間ギリギリになっていた。

「あの、すみません」

 部屋には戻らずに直接店に行こうと階段を降り始めた時、後ろから声を掛けられた。振り向くと、小学校高学年ぐらいに見える女の子が立っていた。真っ直ぐに切りそろえられた前髪の下の大きな眼が印象的だった。子供なのに、品のいいワンピースがよく似合っている。

「何か?」

 訊ねると女の子は俯き、少し躊躇ちゅうちょしている様子を見せた。

「どうしたの?」

 もう少し優しい口調で尋ねてみると、彼女はようやく勇気を出した様子で口を開いた。

「落とし物が届いていませんか」

 落とし物?

「白い上着を着たカエルのマスコットなんです。このくらいの」

 両手で示した大きさは二十センチぐらい。すぐに思い当たった。昨日階段で拾った縫いぐるみだ。

「ああ、あれね。拾ったよ。中にある」

 途端に、少女の頬が喜びに紅潮した。柚彦に続いて階段を降りながら「ありがとうございます」と口にする。礼儀正しい子だ。

「レジ横に……」

 店に入りかけて、柚彦は足を止めた。昨日見た縫いぐるみの惨状を思い出したからだ。あれをそのまま渡していいものだろうか。小学生がバーに用があるとは思えない。こんなところまで来たということは、相当あちこち探し回ったのだろう。大切なものなのであれば、あれを見たらショックを受けるのではないだろうか。

「ちょ……ちょっと待って」

 言ってから遅かったと気づく。彼女はもう店の中に居た。

「いらっしゃいま……」

 守さんの声が途中で止まる。柚彦が小学生を伴って入って来たのだ。状況が読めないに違いない。柚彦は曖昧に笑い、頭を動かさないように視線だけでレジ横の椅子を見る。けれど、そこに座っていた筈のカエルはいなかった。

「守さん、ここにあった縫いぐるみ、どこ行ったか知りませんか?」

「縫いぐるみ?」

 振り向いた守さんが、レジ横の椅子を見る。

「知らないなあ。昨夜店を閉めた時も、さっき開けた時も何も無かったと思うけど」

 どこかほっとしている自分がいた。この少女にボロボロになったカエルを見せずにすんだ。大事な探し物なのに。無くなったら困るのに……。

「ごめん。僕の勘違いかも」

 そう言って頭を掻いた柚彦の顔を少女はじっと見つめた。白眼の部分が青く澄んだ、子供特有の綺麗な眼だ。くっきりとした二重瞼の下の意志の強そうな瞳。

「探しておくよ」

 濁りの無い眼差しに押されて、ついそう言ってしまい、柚彦は後悔した。

「よろしくお願いします。友達に貰った、大切なものなんです」

 少女はそう言って頭を下げた。

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