第24話 砕け散る平穏

 聖ソフィア王立魔法院の大広間は、既にたくさんの人でにぎわっていた。

 天井のシャンデリアが振りまく無数の光の粒が、オーケストラの奏でる優雅で甘いワルツの調べに乗って、きらきらと舞っている。

 着飾った生徒たちの熱気とさざめき。その全てが混ざり合い、夢のように幸せな空気となって会場を満たしていた。


 銀糸で薔薇の刺繍が施された、淡い紫色のドレス。レノーアが私のために完璧に結い上げてくれた髪。

 私は、生まれて初めて、自分が物語の主人公になったような気分だった。


「みんな、とても楽しそうね」

「はい。お嬢様も、今宵の誰よりも輝いていらっしゃいます」

「……あなたもね、レノーア!」


 すぐそばで微笑むレノーアも、濃紺のシンプルなドレスが彼女の長身と黒髪を際立たせ、息を呑むほどに美しい。


 私たちは、兄フェリクスの到着を待つ間、練習を重ねたワルツを踊っていた。軽やかなステップ、完璧なリード。談話室でのぎこちない練習が嘘のように、私たちは、まるで一つの生き物のように、音楽に身を任せていた。


「ちょっと、目立ちすぎかしら?」

「ふふ。完璧に踊れていますよ」


 レノーアに導かれるまま、くるりとターンする。ウエストに添えられた彼女の手が、私を優しく支えてくれる。世界中の誰よりも、今、私が一番幸せだ。この時間が、永遠に続けばいい。

 皆が羨ましそうに見ている。兄様にも、この姿を見てほしい。

 あなたが心配していた妹は、もう大丈夫。こんなに素敵な人に支えられて、こんなに幸せな時間を過ごしているのだと。


 その、あふれ出しそうなほどの幸福感が──心の奥底で眠っていた、巨大な力の最後の閂を、外してしまったのかもしれない。


 パキィン!


 それは、楽しげなワルツの調べも、人々のさざめきも、すべてを切り裂いて響き渡った、甲高い絶望の音だった。

 ワルツのステップの、ちょうど頂点で。

 私の右腕で、心臓と連動するように穏やかな光を放っていた『鞘』に、一瞬で、無数の亀裂が走った。


「え……?」


 次の瞬間、私たちの三日三晩の結晶は、砕け散った。

 黒い籠手の破片と、光を失った心臓石のかけらが、きらびやかなダンスフロアに、無慈悲に散らばる。

 全ての束縛から解き放たれた、私の右腕。

 その忌々しい黒手が、レノーアの肩に、触れていた。


 ジュッ、と。服を焦がすような音は、誰にも聞こえなかっただろう。

 ただ、私の目の前で。

 時間の流れが、ねっとりと引き伸ばされる。

 レノーアの美しいドレスの肩口が、まるで燃え尽きた蝶の翅のように、音もなく黒い塵へと変わり、はかなく崩れ落ちていく。


 音楽が、止まった。

 さざめきが、消えた。

 一瞬の完全な静寂の後、誰かの引きつった悲鳴が、夜会を引き裂いた。


「きゃあああああっ!」

「な……なんだ、あれは!」


 人々が、蜘蛛の子を散らすように後ずさる。先ほどまで、羨望と微笑みで私たちを見ていた瞳が。今は恐怖と、畏怖と、そして理解不能なものを見る色に変わっていた。

 私の右腕。鞘を失い、そのおぞましい本性を現した『漆黒』の腕。


「あの力……騎士像を壊した時の……」

「危ない! 離れろ!」


 違う。違うの。お願い、そんな目で見ないで。これは、触らなければ大丈夫だから──。

 叫びたいのに、声が喉に張り付いて、ただひゅう、と息が漏れるだけだった。

 恐怖に歪む顔、顔、顔。その無数の混乱の中で、一人だけ違う表情の人がいた。

 コルネリア・アウレリアン。彼女は、恐怖に震えながらも、その瞳の奥に、得体のしれない光を宿していた。驚きと、畏れと、そして、まるで神の御業でも見るかのような……ほんの僅かな、陶酔にも似た光。


 何にせよ、もう、終わりだ。

 手に入れたはずの平和は、私の手の中で、砂のようにこぼれ落ちていった。

 膝から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。その時だった。


 ざわめく人垣を、割って、ただ一人。

 迷いのない足取りで、まっすぐに、こちらへ向かってくる人影があった。

 夜会用の、豪奢な銀の刺繍が施された純白の軍服。月光を溶かし込んだような、白銀の長髪。


「……お兄、様……今は」


 フェリクス・フォン・ローゼンベルク。誰よりも、私を理解してくれる人。


 彼の瞳には、恐怖に凍り付く群衆も、床に無残に散らばった鞘の残骸も、何も映っていない。ただ、世界の終わりに取り残されたように絶望する妹だけをまっすぐに見つめ、私の前に、静かに跪いた。

 そして。

 全ての元凶である、私の漆黒の右手を、その温かい両手で、優しく包み込んだ。


「え、ちょっと!」


 彼の白い手袋に、黒い崩壊の力が移っていく。けれど、彼は少しも怯まなかった。

 まっすぐに私の瞳を見つめると、まるで聖遺物に触れるかのように、その呪われた手の甲に、祈りを込めてそっと口づけを落とした。


「――よく、頑張ったね。リゼロッテ」


 その声は、震えるほど、優しかった。

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