第22話 二人だけの舞踏会
その日の夜、私とレノーアは、寮の広大な談話室に忍び込んでいた。
消灯時間が過ぎ、夕刻の喧騒が嘘のように静まり返っている。窓から差し込む月明かりだけが、私たちの姿をぼんやりと照らしていた。
「レノーア! この談話室を、今夜だけ私たちの舞踏室にするわよ!」
「お嬢様、お声が大きいです。他の方々がお休みになっています」
「おっとと……そうだったわね」
人差し指を口に当てて、シーッとポーズを取る。
私たちは協力して、重厚なソファやテーブルを壁際に寄せ、部屋の中央にダンスのためのスペースを確保した。
準備は万端。私は、兄から貰った魔道具のオルゴールを起動させる。
「音量は……これくらいかしら?」
「はい。それなら外には聞こえないかと存じます」
水晶が淡い光を放ち、優雅なワルツの調べが、静かに流れ始めた。
「さあ、始めましょうか! ダンスの基本は、男性が女性をリードすること。つまり、私がレノーアを導いてあげるわ!」
私が得意げに胸を張ると、レノーアは少しだけ困ったように眉を下げた。
「お嬢様、ですが、基本のステップは……」
「大丈夫、大丈夫! 私、こう見えても公爵令嬢よ? ダンスの嗜みくらい、完璧に叩き込まれているんだから!」
私は自信満々にレノーアの手を取り、もう片方の手を彼女のウエストに回そうと――した、その時。
「わっ、きゃっ!?」
勢い余って足がもつれる。ぐらついた私を支えようとしたレノーアもろとも、私たちは近くのソファになだれ込むように倒れてしまった。
ふか、と柔らかなクッションが、私たちの気まずい衝突を受け止める。
「……お嬢様。お怪我は?」
「だ、大丈夫よ! これは、その……床の材質が悪いの! ええ、ワックスが効きすぎているわ。見栄えばかり気にして、アウレリアンの悪いところね!」
ソファの上で、私の上にレノーアが乗っている、というとんでもない状況。
至近距離にある彼女の顔から、慌てて視線を逸らす。いつもの冷静な彼女が、今は驚いたように少しだけ目を見開いている。その表情が、なんだかすごく、目に焼き付いてしまって。
心臓が、おかしいくらいにうるさく鳴っていた。
「……承知いたしました。では、床のせい、ということにしておきましょう。ですがお嬢様、効率を考えれば、ここは私がリードさせていただくのが最善かと存じます」
「う、ぐ……。しょ、しょうがないわね! あなたがそこまで言うなら、特別に、リードさせてあげなくもないわ!」
一体、私は何を言っているのだろう。
体勢を立て直し、今度はレノーアのリードで、私たちはフロアの中央へと歩み出た。
レノーアが、私の右手を取り、彼女の左手と絡ませる。そして、もう片方の手が、私の腰に、そっと……確実に添えられた。
「う……!」
優しく触れられた部分が、なんだか熱い。
さっきまで自分がやろうとしていたことなのに、いざやられる側になると、心臓が口から飛び出してしまいそうだ。
腰に添えられた手の、白い手袋越しの体温。
私をまっすぐに見つめる、真紅の瞳。
ふわりと香る、陽だまりのような、レノーアの匂い。
まるで、世界のすべてが彼女を中心に回っているみたいだ。
こんなの、意識するなという方が無理に決まっている。
ワルツって、こんなにも心臓に悪いダンスだったかしら?
「お嬢様。背筋が曲がっております」
「は、はいぃっ!」
「力みすぎです。リラックスしてください」
「む、無理よ……こんな風に優しく触られたら、こう……変な感じになるじゃない!」
「お褒めに預かり光栄です。さあ、参りますよ。ワン、ツー、スリー……」
「え? 私いま褒めたっけ?」
「集中してください。転んでしまいます」
それでもレノーアの完璧なリードで、私たちの身体が、自然とワルツを奏で始めていた。
私は、その滑らかな動きについていくのに必死だった。
「お嬢様。足元ではなく、私の目を見てください」
「無理よ……足元見ないと転ぶし。というか、あなたの目を見ている方がもっと転びそうになるわ」
「私に任せてくだされば、転びません。目を合わせれば、呼吸も合います」
「そうじゃなくて……あなたの魔眼的なあれが、その──」
なんて苦しい言い訳だろう。でも、もうどうにでもなれ、という気分だった。
私が半ばパニックに陥っている間も、レノーアは完璧なステップで、私を優雅に踊らせ続ける。くるり、とターンした瞬間、遠心力で身体がふわりと浮き、それを彼女が力強く引き寄せてくれた。私の身体は、完全にレノーアの腕の中だ。
ああ、もう。ダメかもしれない。
この絶対的な安心感。いつだって私を支え、守ってくれる完璧な従者。
その存在が、感謝や安堵という言葉だけではもう足りないくらい、私の心を温かく満たしていく。
溢れ出したその想いが、ほとんど無意識に、私の口から滑り出ていた。
「──レノーア。あなたといると、本当に、安心するわ。……ありがとう。これからも、ずっと、一緒にいてね」
それは、私の、精一杯の告白だった。
その言葉を聞いた瞬間、レノーアの動きが、ほんの僅かに硬直した気がした。
彼女の瞳が一瞬だけ、深く、悲しい色に揺れる。
けれど、私が「どうしたの?」と尋ねるより早く、その瞳はいつもの穏やかな深紅に戻り、悲しみの影は幻だったかのように消えていた。
「――当たり前です。私は、お嬢様の従者ですから」
そう言って、彼女が完璧な笑みを浮かべた、その時だった。
ガチャリ、と。
談話室の扉が、無遠慮に開かれた。
「……夜分に失礼します。リゼロッテ様は……って、何をやっているんですか、貴女たち」
そこに立っていたのは、数冊の難解そうな魔道書を抱えた、我らが技術顧問、ヴェロニカ・シュタインだった。
その眼鏡の奥の瞳が、最高に呆れきった色で、私たちを射抜いている。
「べ、ヴェロニカ!? こ、これは違うの! その、貴族の伝統的な……そう! フィジカル・コンディショニングよ!」
「はあ? フィジカル・コンディショニング?」
私のしどろもどろな言い訳に、ヴェロニカは、すっと眼鏡の位置を直した。
「なるほど。パートナーの足を踏みつけることで、下肢への物理的負荷耐性を向上させる、と。非効率的ですが、興味深い試みですね。ちなみに、私の計測によれば、この三分間で、リゼロッテ様がレノーアさんの足を踏んだ回数は九回。ステップの成功率は、およそ三十パーセントといったところでしょうか」
「あなた、データをとっていたの!? というか、ずっと見ていたの!?」
「ええ。貴女たちの心拍数の上昇率も、実に非論理的で興味深い推移を示していました。今後の鞘の改良に、参考にさせていただきます」
ヴェロニカは、淡々と分析結果を告げると、「ウソですけどね」とだけ言って、さっさと部屋を出て行ってしまった。
後に残されたのは、顔から火が出そうなほど真っ赤になった私と、いつの間にか完璧な無表情に戻って、静かにお辞儀をしているレノーアだけだった。
私たちの、甘酸っぱい舞踏会は、こうして、最も気まずい形で幕を下ろしたのだった。
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