第29話 足音
壇上を降りた瞬間、世界が音を取り戻した。
スピーカーから流れる司会の声、控え室に戻る生徒たちの笑い声、ステージの裏で誰かが拍手してくれる音。
あらゆる音が、現実に戻ったように交錯し、私の周囲を包み込む。
でも私は、そんな賑わいから少しだけ距離をとるように、ゆっくりと階段を降りていた。
まるで、落ちたばかりの雪を踏みしめるように、慎重に、静かに。
言葉は、すべてステージに置いてきた。
もう何も考えたくなかった。
ただ、自分の中の空っぽを感じながら、校舎の影へと歩き出そうとした——そのときだった。
「……晴」
名前を呼ばれた。
聞き慣れた、でも今はやけに胸に響く声。
私は顔を上げる。
その名前を、この瞬間に呼ぶ人は、ひとりしかいない。
遼がいた。
すぐ近くに。ほんの数メートル先。
彼は、静かに立っていた。
風が吹いて、制服の裾が揺れた。
目が、まっすぐ私を見ていた。
その目の奥が、かすかに潤んでいたのは、私の錯覚じゃなかった。
「……最初から、聞いてたよ」
遼の声は、思っていたよりも近くて、温かかった。
それでいて、どこか決意をはらんでいた。
「晴の言葉、全部、聞いた」
その一言で、胸の奥がほどけた気がした。
さっきまで張りつめていた何かが、柔らかく崩れていく。
「……そっか」
それしか言えなかった。
でも、心は言葉以上に答えていた。
今、私の中にあるすべてを、彼に伝えるには、それだけでよかった。
けれど、ほんの少し——ほんの少しだけ、拗ねたような気持ちが顔を覗かせた。
「じゃあ……なんで、最後まで声、かけてくれなかったの?」
遼は、ちょっとだけ顔を歪めて、照れたように頭をかいた。
「……なんかさ、途中で止めたら、晴の言葉、途切れちゃいそうで。全部言わせてあげたかったんだ。……晴のタイミングで、最後まで」
その言葉に、胸が熱くなる。
「……それ、ちょっとだけ嬉しいかも」
呟いた声が、思っていたよりも震えていた。
遼は一歩、私に近づいた。
その距離は、決して急がず、でも確かに縮まっていく。
「……今日の晴、ほんとにすごかった。かっこよかった」
「……照れるんだけど」
自然と、笑みがこぼれる。
そんなふうに素直に褒められることに、私はまだ慣れていない。
でも、その言葉の熱が、ゆっくりと胸の奥に浸透していく。
「……晴の言葉、俺……全部、届いた。思ってたよりもずっと、深く。……俺にとって、本当に、大事なことだった」
「遼……」
私は、言葉を失っていた。
でも、彼はそこからさらに、ゆっくりと、核心に触れていく。
「……俺さ、ずっと人を信じきれなかったんだ」
その言葉に、空気が少し変わる。
「信じたいって、思ってたよ。信じてたつもりだった。でも心のどこかで……また裏切られるんじゃないかって、いつも思ってた。誰かに全部さらけ出したら、きっとまた傷つくって。だから、信じるふりをして、いつも途中で引いてた」
彼の声には、静かな痛みがあった。
過去に刺さった棘が、まだ完全には抜けきっていないような、そんな響き。
「でも、今日、晴のスピーチを聞いてさ……変わったんだ」
風がまた吹く。
髪が揺れる。視界が微かに滲む。
「晴の言葉を聞いて……“この人なら信じてみてもいいかもしれない”って、そう思えた」
「……本当に?」
私の問いは、まるで祈りのようだった。
「うん」
遼ははっきりと頷いた。
「全部さらけ出しても、逃げずに受け止めてくれそうだって、そう思えた。“傷つくかもしれない”って思いながらでも、信じたいって思えた——」
私の中に、波のように感情が押し寄せる。
喜びとか、安心とか、そんな単純な名前をつけられない感情。
「……私、嬉しい。ほんとに」
遼の目が、少しだけ緩んだ。
そして、言う。
「俺、自分のこと……ずっと嫌いだった」
「……私も」
言葉が、自然と重なった。
ふたりで目を見合わせ、同時に小さく笑った。
それは、ほんの短い時間だったけれど、きっと、これまででいちばん正直な笑いだった。
「……走ってきた音、聞こえた?」
遼が言う。
「うん。すごく必死そうだった」
「……必死だったよ。ギリギリだったけど、間に合ってよかった」
その言葉の中に、どれほどの想いがあったか。
私は、もう訊かなくても分かっていた。
沈黙がふたりの間を満たしていた。
でも、その沈黙は、苦しくも重くもなかった。
ただ、ぬるま湯のように、心を包んでくれていた。
やがて遼は、まっすぐ私の目を見て、静かに言った。
「晴……俺、もう逃げないよ」
その言葉は、どこまでも静かで、どこまでも強かった。
私は、まっすぐに頷いた。
「私も」
遠くから文化祭の音が聞こえてくる。
マイクテストの音、歓声、拍手——それらすべてが、別の世界の音のように感じた。
今、私たちの世界は、この場所にあった。
あの日の保健室。
図書室。
元カノの言葉。
スピーチの時間。
そのすべてが、いま、ここに重なっていた。
遼の手が、少しだけ動いた。
私は、その手の動きを、見逃さなかった。
「晴、……これからの俺を、ちゃんと知ってもらいたい。まだ言えてないことがたくさんあるけど、少しずつ、話していく。それでも、いい?」
私は迷わず、頷いた。
「……ううん、そうしてくれたら嬉しい。全部じゃなくてもいい。全部を言葉にできなくてもいい。でも……私のそばで、話してくれるなら、どんなことでも、ちゃんと聞くから」
遼が、柔らかく笑った。
それは、私の知っている遼の笑顔で、でも今までより、少しだけ深くて、少しだけあたたかかった。
「ありがとう、晴」
「こちらこそ、遼」
再び風が吹いた。
遼の髪が揺れ、私の制服の裾がふわりと舞った。
陽射しは、もう西の空に傾いていた。
でも、私たちの影は、まだしっかりと隣り合っていた。
——もう、ふたりの距離は、それほど遠くなかった。
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