第28話 壇上

朝、校庭には白いテントが並び、風に揺れる色とりどりの飾りが朝日を受けてきらめいていた。


生徒たちの笑い声、マイクテストの響き、屋台の準備に追われる手際のよい音。

文化祭本番の空気は、少し浮き足立っていて、それでもどこか眩しかった。


私は、その熱気の中に、そっと足を踏み入れていた。

胸の奥がそわそわして、落ち着かない。

それは不安というより、期待と覚悟が入り混じった、不思議な感覚だった。


時間は、静かに、でも確実に、私を壇上へと導いていく。


ステージ裏に呼ばれた私は、係の先生にマイクを胸元に留められながら、手元の原稿を見つめていた。


昨日の夕暮れ、静かな視聴覚室で書いた、たった数枚の原稿。

でも今、それがひどく重たく感じられる。


この紙には、飾りも言い訳もない。

あるのは、やっと絞り出せた、“私の声”。


ふと、舞台袖に立ったとき、観客席が目に入った。


クラスメイトたち、先生、保護者、地域の人たち——

ざわめきの中に、ふと目が合った気がしても、誰かは分からない。


でも、どこかに、遼もいるかもしれない。


その想いだけが、静かに私の背中を押していた。


「御堂さん、準備……いいですか?」


係の声に、私は頷いた。


深く、ひとつ、息を吸い込む。

足が舞台に触れた瞬間、足元から別の空気が立ち上るのを感じた。


マイクの前に立つと、まぶしい照明が視界を白く染めた。


静寂が、波のように押し寄せる。

遠くから聞こえていた雑音がすべて消えて、耳に届くのは、自分の心臓の音だけ。


私は、原稿を見た。


そして、そっと、息を吐いた。


ゆっくりと、原稿を閉じる。


——これは違う。


そう、私の中の“何か”が告げていた。


私は原稿を横に置くと、まっすぐ前を見た。


観客の姿が、にじんで揺れて見える。


でも、私は怯まなかった。


「こんにちは、生徒会の御堂です」


最初の声は少し震えていた。

けれど、続けるうちに、不思議と落ち着いていった。


「本当は、原稿を読むつもりでした。昨日の夜に、やっと書いたばかりの言葉です。でも……いま、ここに立って思いました。それは“昨日の私”が書いた言葉であって、今ここにいる“私”の声じゃないかもしれないって」


私は、ゆっくりと観客を見渡す。


目の前の誰かではなく、自分自身に向けて語りかけるように。


「私は、これまでずっと“誰かの期待に応えること”を一番に考えて生きてきました。明るくて、真面目で、優しいって言われることが多くて……それが、“私らしさ”なんだと思ってました。でもその中には、本当の私は、あまりいませんでした。本音を言うのが怖かった。嫌われることが怖くて、誰にも感情をぶつけずに、笑っていました。だから、いつの間にか“私は、愛されなくてもいい”って、思い込んでたんです」


言葉を吐きながら、自分の中に積もっていた“孤独”が少しずつほどけていくのを感じた。


「愛されない方が楽だった。期待されなければ、失望させることもないし、

拒絶されることもない。そうやって、ひとりでいることに慣れていった」


でも——と、私は続ける。


「本当は違ったんです。私は、誰かにちゃんと“見てほしかった”。気づいてほしかった。受け止めてほしかった。私が笑う裏側にある感情まで……知ってほしかった。“誰かと一緒にいていい”って、そう思えるようになりたかった」


視界がにじむ。

それでも、私は言葉を止めなかった。


「私は、たぶん今まで、“愛される価値がある自分”を探してばかりいたんです。完璧じゃなきゃ、認めてもらえない気がして。頑張ってるふりをして、自分のダメなところを隠して……それが正しいと思ってました。でも、それは違う。今は、そう思えるようになりました」


私は、深く息を吸い込む。


「私は、愛されていい。そして——誰かを、ちゃんと愛していい。その人の過去も、傷も、弱さも、まだ語られていない秘密も……全部を、受け止められる人でありたい」


遼の顔が、頭の中に浮かんだ。


目を伏せていた彼の横顔。

誰にも言えなかった苦しさを、誰かに知られたくなかった何かを、ずっと抱えてきた彼。


「人は、誰しも見せたくない部分を持っていて。それは時に、暗くて、重たくて、触れてはいけないように感じるかもしれません。でも……私は、そういう部分ごと、大切にできる人間でありたい。私を受け入れてくれたように、私も、大切な人のすべてを受け入れたい」


観客席が静かだった。

誰も笑わず、誰も話さず、ただ耳を傾けてくれていた。


「私はまだ、自分のことがちゃんとわかっていません。これからも、悩んで、迷って、また壁にぶつかって……泣くこともあると思います。それでも私は、自分自身を、少しずつでも好きになれるように生きていきたいです。誰かに愛されたいと思ってもいいし、誰かを愛して、そばにいたいと思っても……いいですよね?」


涙が頬を伝った。


でも、いま流れているそれは、悲しみではなかった。


ようやく言えた。

ようやく伝えられた。

自分に嘘をつかずに、今の自分の声で。


私は、マイクの前で、静かに頭を下げた。


「……ありがとうございました」


一瞬の沈黙のあと、拍手が響いた。


それは大きな音ではなかったけれど、とてもあたたかかった。

遠くから誰かが手を叩き、次第に波のように広がっていく。


私はその音に包まれながら、心の中で小さく祈った。


——ちゃんと届いていますように。


あの人のもとへ。

そして、自分自身のもとへ。


舞台の照明が、涙でにじんでいた。

でも、その光は、昨日までとはまったく違って見えた。


今日、私は“私自身”として話すことができた。


それだけで、十分だった。

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