第21話 本音の予兆

翌日、私は原稿用紙を胸に抱えながら、視聴覚室に向かっていた。


スピーチの練習をしたいと申し出たら、先生が静かな場所を貸してくれたのだ。


薄暗い教室には、閉ざされたカーテンと、整然と並ぶ椅子の列。


誰もいない空間に足を踏み入れた瞬間、空気が一段階ひんやりと変わる。


私の靴の音が、やけに響いた。


誰もいない場所だからこそ、自分の心のざわめきまでが音になって跳ね返ってくるようだった。


私は教壇の前に立って、折りたたんだ原稿用紙を開いた。


深呼吸。


喉の奥が緊張でつまる。けれど、それでも息を吐いて、言葉を押し出す。


読み始めた声は、自分でも驚くほど震えていた。


『わたしは、言えなかった。ずっと、言えなかった——』


自分の書いたその一文が、教室の壁に反響して戻ってくる。


静かな教室に、自分の声だけが浮かぶ。そのことに、少しだけ眩暈がした。


言葉は、紙の上にあるときは静かだったのに、声に出すと一気に現実味を帯びる。


一文、一文、読み進めるたびに、胸の奥にあった何かが、かすかに軋んだ。


けれど同時に、別の何かがうずくような感覚もあった。


震えながらも読み続ける中で、ふと気づいた。


これは“私の声”になっていない。


途中まで読み進めたところで、言葉が急に止まった。


『この高校生活で、たくさんの仲間に支えられ……』


私はそこで、思わず黙り込んだ。


支えられた——?


本当に、私は誰かに支えられていたのだろうか。


胸の内側に、じわりと重いものが広がっていく。


私は、ただ「良い子」として、誰にも迷惑をかけず、誰にも本音を話さずに過ごしてきた。


誰かと心から笑い合った日が、どれほどあっただろう。


周囲に合わせることばかりを優先してきた自分。


心の奥では、いつも孤独を抱えたままだった。


「たくさんの仲間」——その言葉が、急に自分の声として浮いて見えた。


原稿のその部分が、まるで違う誰かの原稿みたいに、他人事に感じられた。


私はその場に、すとんと腰を下ろした。


空っぽな言葉。


借り物のような台詞。


教室の天井に視線を向けた。


天井の蛍光灯が淡く光っていて、その下で私は、自分の気持ちの居場所を探していた。


椅子に手を伸ばして、軽く握ってみる。


冷たいプラスチックの感触が、手のひらにじんと伝わる。


それは、今の私の心の温度と同じだった。


「これ……私の言葉じゃない」


ぽつりと呟いた声が、空間に吸い込まれていく。


こんなにも静かな場所なのに、自分の声はまだどこか遠かった。


目を閉じると、遼の姿がまた浮かぶ。


何も言わなくても、ただそこにいてくれた、あの姿。


彼の前で私は、本当の自分を言おうとしていた。


言えなかったけど、確かに「言いたい」と思った。


それが、今ここにある「私の言葉」の始まりだったはず。


原稿のその一文を、私はペンで静かに斜線で消した。


文字をひとつ消すごとに、胸の奥にわずかな解放感が広がっていく。


「書き直そう……」


声に出した瞬間、少しだけ胸が軽くなった。


完璧な言葉じゃなくていい。


飾られた言葉でもない。


ただ、私が本当に思っていることを、まっすぐに書きたい。


たとえ誰かに届かなくても、偽りのないものを、自分自身に届けたい。


ペンを持ち直し、私は新しいページを開いた。


机の上に差し込む光が、静かにその紙面を照らしていた。


それは、誰に向けた言葉でもなく——たった一人の自分に向けた、最初の“声”だった。


そして私は、書き始めた。


揺れながらでも、言葉を持って歩き出すために。


小さくても、震えていても、確かに存在する“私の気持ち”の輪郭をなぞるように。

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