第20話 文化祭準備
文化祭が近づくにつれて、学校の空気が少しずつ浮き足立っていくのを感じていた。
色とりどりの模造紙が廊下に貼られ、教室の黒板にはスローガンが大きく書かれる。
どこからか運ばれてくる笑い声や、机を動かす音が、私の足元をかすめていく。
でも私は、それらすべてから、少しだけ距離を置いていた。
「御堂さん、生徒会から伝達です。文化祭初日の開会式で、生徒代表スピーチお願いします」
副会長の女の子が、丁寧に、けれど当然のように告げてくる。
断る理由なんて、なかった。
生徒会に所属している以上、それは当たり前の流れだったし、以前の私なら迷うこともなかった。
「……わかりました」
私はそう答えた。誰にも違和感を悟られないように、静かに笑って。
でも、心のどこかで、冷たい水に触れたような感覚があった。
スピーチ。
人前で、自分の言葉で話すということ。
それは今の私にとって、少しだけ……怖いことだった。
放課後、図書室には行かなかった。
誰かと目が合うのも、言葉を交わすのも、今は少しだけ避けたかった。
昇降口を出ると、夕暮れの光が校舎の壁に淡く反射していた。
かつて、遼と並んで歩いたこの場所も、今はただ静かで、広すぎる空間に思えた。
家に帰ると、母が「おかえり」と言った。
私は「ただいま」と返した。それだけだった。
夕食の味もしなかった。
夜、机に向かって、原稿用紙の前に座る。
生徒代表として語る言葉。
何を書けばいいのかわからなかった。
「思い出に残る文化祭を……」と書いて、すぐに消した。
「仲間と築いた絆を……」と書いて、また消した。
それらの言葉は、どこか借りもののようで、自分の声ではなかった。
どんなに整っていても、空っぽだった。
私は、いったい何を伝えたいんだろう。
そして、誰に向けて話すんだろう。
机に突っ伏して、目を閉じた。
まぶたの裏には、遼の横顔が浮かんでいた。
伝えたい言葉は、確かにあるはずだった。
でも、それはあまりにも奥深くに沈んでいて、まだ、私の声にはならなかった。
翌日の朝、登校しても原稿は真っ白なままだった。
教室に入ると、文化祭の話題で盛り上がるクラスメイトたちの声が耳に飛び込んできた。
「模擬店、どうする?やっぱクレープが強いよね」
「誰が看板娘やるのー?晴ちゃんとか似合いそう」
笑い合うその輪の中に、自分の居場所があるような気がしなかった。
声をかけられれば、笑顔で返す。
表面だけは、いつもどおり。
でも、胸の奥にはずっと、張りつめた糸が一本通っていた。
原稿用紙の白さが怖かった。
自分の声で話さなければならないことが、プレッシャーになっていた。
“誰かの期待に応える”——それは昔から得意だった。
でも今、求められているのは“私の言葉”だった。
その違いが、こんなにも苦しいものだとは思わなかった。
「御堂さん、原稿の調子どう?もう書き始めてる?」
放課後、生徒会室に立ち寄ったとき、副会長に訊かれた。
「……はい、まあ、少しずつ」
嘘だった。
でも、そう言うしかなかった。
副会長は「さすが」と微笑み、他の書類に目を戻した。
私は手に持っていたファイルを強く握ったまま、生徒会室を後にした。
校舎を出たとき、少し風が吹いた。
髪が揺れて、頬をかすめる。
その瞬間、遼の言葉が、また蘇った。
「……俺といると、お前まで壊れる」
頭の中で、何度も繰り返してしまうその一言。
あのときの彼の顔、沈黙、揺らぎ。
私の中にある迷いと不安は、そこに根を張っていた。
私は壊れてなんかいない。
でも、“壊れるかもしれない”と誰かに思わせるほどに、私は不安定なのだろうか。
文化祭というイベントは、例年の盛り上がり以上に「期待」という名の波を運んできた。
私のように、感情を抱え込む人間にとって、それはとても重たい波だった。
夜になっても、原稿は書けなかった。
何かを書き出そうとするたびに、心が止まってしまう。
そして気づけば、また遼のことを考えていた。
あの人の前では、私は言葉にならない気持ちも、大切にしてもらえた。
そんな気がしていた。
「私……何を言いたいんだろう」
自問のような独り言が、部屋に溶けていく。
目を閉じると、あの静かな図書室の時間がよみがえった。
本のページをめくる音、窓の外の葉擦れ、そして、遼が差し出す手の温度。
私が救われたあの瞬間——それこそが、たぶん私の“始まり”だった。
だったら、私はそのことを語ればいいのかもしれない。
形式や期待じゃなくて、自分の声で。
そう思ったはずなのに、ペンはまた止まった。
言葉にすれば、何かが崩れてしまいそうで怖かった。
否定されたらどうしよう。
失笑されたら。
興味を持たれなかったら。
それを想像するたび、喉の奥が苦しくなった。
でも、このままじゃ、誰にも何も届かない。
葛藤のまま、私は机に顔を伏せた。
机の表面が、ひやりとしていた。
カーテンが、風に揺れていた。
その揺らぎに、私の迷いも少しだけ揺らいだ気がした。
どこかで、背中を押してくれる声が聞こえた気がした。
たとえそれが幻でも——その声にすがりたかった。
そして、ようやく小さく、一言だけ、原稿の一行目を書いた。
『わたしは、言えなかった。ずっと、言えなかった——』
それは、誰に向けた言葉でもなく——たった一人の自分に向けた、最初の“声”だった。
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