第2話 空っぽのまま生きてる
いつから私は、こうして上手に笑えるようになったんだろう。
昼休みの教室。机を寄せ合い、あちこちで弁当の包みが開かれる音がする。プラスチックの箸がぶつかる音。笑い声。にぎやかさの中心にいるようでいて、私はどこか、外の世界から覗いているような気分だった。
「ねえ晴、今度の週末ってさ——」
沙也の声。私は反射的に顔を向けて、柔らかく微笑む。問いかけの内容は最後まで聞いていない。けれど、たいていのことは“それっぽく”答えられる。長年、そうやってきたから。
「……うん、たぶん大丈夫だと思う」
言いながら、頭の中で“たぶん大丈夫”な予定を急いで作り上げる。何かあれば断ればいい。何もなければ合わせればいい。どちらにしても、「行けない理由を本音で話す」必要なんて、きっと誰も求めていない。
昼食を囲む輪の中。話題はテレビ、メイク、他愛ない笑い話。私は笑って、相槌を打って、時には冗談も返す。演じることは、もう日常になっていた。
ただ、ふとした瞬間に感じる。
私の声は、本当にここに届いているんだろうか?
私の存在は、本当にこの輪の中にあるんだろうか?
机に手を置く。その感触すら、どこか曖昧だ。空気の層を一枚隔てた世界で、私は「ここにいるように見せる」ことを続けている。
「それさ、結構前から人気だよね」
「ね、〇〇ちゃんも使ってたよ」
誰かの言葉に頷きながら、私はその“〇〇ちゃん”が誰なのか思い出せなかった。けれど、笑顔のタイミングさえ外さなければ、誰にも気づかれない。
私の返す言葉には、心が宿っていない。まるで自動販売機みたいに、選ばれたセリフをただ繰り返しているだけ。
なぜ、そんなふうにしてまで「輪の中にいよう」としているのか、自分でもよくわからなかった。
放課後。教室の窓から差し込む光が、床のタイルに長い影を落としていた。窓際のカーテンが、夕方の風に小さく揺れている。
机を拭き、椅子を整え、黒板を見上げる。チョークの粉がまだうっすらと漂っていて、その匂いに、ふと幼い頃の記憶が蘇った。
——小学生のころ。もっと無邪気だった頃の私。
教室の隅で笑い転げた昼休み。おしゃべりが止まらなくて先生に怒られたこと。誰かの誕生日にサプライズを仕掛けて失敗したこと。
今よりもっとずっと、私は自由だった。
でも、その自由は「良い子でいなさい」という言葉にゆっくりと押し潰されていった。
帰り支度を整えながら、心の奥で呟く。
——今日も、なにも言わなかった。
誰かに言いたい言葉があるわけじゃない。でも、「言葉にできないもの」が確かに胸の中にある。それは言葉にしようとすると、たちまち霧のように消えていく。
私は、何もないまま今日を終えてしまった気がする。
人と関わることは怖くない。
けれど、関わっても“何も残らない”自分が怖い。
誰かと一緒にいた時間の中で、自分だけが何も得ずに、何も与えずに、ただ流されていったような気がする。
そんな日は、家に帰る足取りが少しだけ重くなる。
家の門をくぐり、ただいまと告げる。
「おかえりなさい」
母の声は機械のように整っていて、私の返事もまた、同じように整えられた音だけの言葉。
リビングのテーブルには、明日の予定表と、父からの伝言メモが置かれていた。「模試対策、三日以内に計画立てること」
勉強は嫌いじゃない。けれど、その計画を立てることに何の意味があるのか、もうわからなくなっていた。
机に向かって、教科書を開く。
目で追っても、文字はすぐに形を失っていく。
耳鳴りがする。
カーテン越しの夕暮れが、部屋の空気をゆっくりと沈めていく。
何かを考えようとしても、思考の輪郭はすぐに溶けてしまう。
まるで、自分の中に「私」がいないみたいだった。
——私は、本当に、ここにいるの?
そう問いかけても、返ってくる声はない。
私はきっと、今日もまた、空っぽのまま生きている。
それがいつもどおりであることに、誰も気づかない。
そして私自身も、それを疑うことができなくなっている。
ふと窓の外に目を向ける。
電線にとまった鳥の影が、夕日で赤く染まっていた。その姿が、何かを待っているように見えて、胸が少しだけ痛んだ。
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