きっとまた、君に恋をする

千明 詩空

第1話 優等生の仮面

朝の教室は、いつもと変わらないざわめきで満ちていた。


制服の襟を整え、スカートのしわを指でなぞる。鞄の中から時間割を確認し、机の上に教科書を並べる。それはもう、身体が覚えている一連の動作。すべては「完璧」に見えるように。


誰かに見られているわけじゃない。けれど、私は今日も“御堂晴”であり続けるために、そうしなければならなかった。


「おはよう、晴。今日も朝早いね」


クラスメイトの沙也が声をかけてくる。私はいつものように微笑み、会釈する。


「うん、習慣みたいなものだから」


当たり障りのない言葉を返す。沙也は満足したように頷き、自分の席へと戻っていった。


友達、か。そう呼べる関係なのかどうか、私にはわからない。ただ、彼女の期待する「御堂晴」でいる限り、この関係は壊れない。壊す勇気が、ないだけかもしれないけれど。


窓の外を見ると、柔らかな春の光が校庭を包んでいた。けれど、私の心には何も響かない。風が髪を揺らしても、頬をなでても、その感触すらどこか遠くにある気がする。


チャイムが鳴る。


先生が入ってくると、自然と背筋が伸びた。私は今日も、授業中は一言も無駄口を叩かない。黒板に書かれる文字を丁寧にノートに写し、当てられれば完璧に答える。その繰り返し。評価されることに、もう慣れすぎてしまった。けれど、そこに達成感や喜びはない。


昼休み。沙也や他の子たちと昼食を囲みながら、私は笑顔を崩さない。けれど、その笑顔が本物かどうかなんて、私自身もう分からなくなっている。


「昨日のドラマ見た?あの展開は予想外だったなー」

「うん、びっくりしたよね」


皆の会話に相槌を打ちつつも、私はどこかで“自分”が抜け落ちている感覚に気づいていた。誰かと話していても、まるでガラス越しのように、すべてが遠い。


──感情を出さない。

──期待に応える。


それが、御堂家の娘としての私に課せられた“生き方”だった。


夕食時、重たい空気が食卓を包む。


「今日の模試の結果はどうだった?」と父。

「英語は満点。数学が一問間違えました」

「次は満点を取るように」


母は無言でうなずくだけだった。


この家では、失敗に“許し”はない。

私は今日も、「正しい答え」を返すだけの存在。


幼いころ、一度だけ泣いたことがある。母に抱きついて、「苦しい」と訴えた。


けれど母は静かに私の手をほどき、「晴、それはワガママって言うのよ」と言った。


その日から、私は泣き方を忘れた。

笑い方も、誰かに甘える方法も、忘れてしまった。


私という人間は、いつから空っぽになったんだろう。


日々の中で私は「自分」を置き去りにして、ただ「期待される自分」を演じている。上手に、器用に、完璧に。


だけど。


夜、ベッドの中でふとした瞬間、胸の奥に冷たい空洞を感じる。


それはまるで、誰にも見せられない氷の結晶のようだった。割れそうで割れない、不器用な静けさ。風のない日曜日の午後のように、誰もいない教室のように、私は静かにそこに存在している。


眠りに落ちる寸前、そんなことを思った。


──私は、ちゃんと、生きているんだろうか。

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