25話「記されし名」
馬車の車輪が、土の道をゆっくりと刻んでいく。
窓の外には、朝と昼のあいだの淡い光。森の枝々が風に揺れ、欠けた城壁の残骸が遠のいていく。
車内は静かだった。
クロエは浅く呼吸を整え、リーシャは彼女の肩をそっと支えたまま座っている。セラフィムは目を閉じたまま眉間に皺を寄せ、マニックは膝の上で銃を分解もせず、ただ両手で包み込んでいた。ブランドは窓辺に背を預け、何度も息を整えては、視線を落とし、また上げる。
そしてユウは、前を向いていた。
胸元――薄く浮かぶ花びらの痣が、衣の下でひどく微かな鼓動に合わせて、痛むとも熱いともつかない気配を灯している。
「……さっきの話の、続き」
最初に口を開いたのはクロエだった。声は静かで、どこか確かめるようにやわらかい。
「話せるならでいい。無理はさせない」
「大丈夫」
ユウは短く答え、窓の外の光を一度だけ目でなぞった。
「……あの時、落ちていった先で、俺は“自分”と会った」
車内の空気が、音もなく集まってくる。
セラフィムが、ぽつりと添える。「――聞かせて」
ユウは息をひとつ吐き、目を閉じた。
記憶の底が、ゆっくりとほどける。
⸻
――音が消えた。
温度も重さも、空気さえも輪郭を失った場所。
闇は深く、しかし冷たくはなかった。夜明け前の湖の底に沈んで、ただ水の重みだけが全身を包む――そんな質感。
自分の身体の境界が、遠くなる。
指の形も、息の長さも、全部“昔話”になっていく。
(ここは、どこだ)
問いだけが、泡のように立っては弾ける。
その時――
足音が、した。
闇の底に似つかわしくない、小さな靴音。濡れた石畳を踏むような、あどけないリズム。
ユウは顔を上げる。
闇の向こうに、ひとつの影が立っていた。小さな背中。骨ばった肩。両腕で“何か”を大切に抱きかかえている。
目が合う。
自分の眼だ、と分かった。
少年は、ユウを見上げた。
髪は短く、頬は痩け、けれど瞳だけがやけに澄んでいる。抱えられた“それ”は、鞘に眠る一本の剣――想剣ヴィシン。金具の擦れた痕、手の形に沿って磨かれた鞘の艶、それら全部が懐かしい。
少年が口を開く。
「――どうして、泣いてるの?」
ユウは、自分が泣いていることに、その時はじめて気づいた。頬を伝う温度がやけに正確で、指先で触れた涙はたしかに塩辛かった。
「……分からない」
答えると、少年は首を横に振った。
「知ってるよ。分からないって言うときは、分かってる時だ」
その言いぐさが懐かしく、胸が痛む。
風のない闇の中で、剣の鞘金がかすかに鳴った。少年は抱えた剣を少し持ち直し、ユウに向けて、一歩近づく。
「ぼくは、きみ」
少年は静かに言う。
「でも、今のきみじゃない。昔の――きみ」
ユウは息を呑んだ。
少年は剣を抱いたまま、片頬だけで笑う。どこか癖のある笑い方。胸の内側に、忘れていた形の鍵が差し込まれる感覚。
「ねえ、名前は?」
少年が首を傾げる。
「きみの、今の、名前」
「……緋凪ユウ」
口にした瞬間、闇の水面に小さな波紋が広がる。
少年は、その波紋の端を指でなぞるように目を細めた。
「きれいな名前」
少年は言った。
「じゃあ――ぼくの名前は?」
ユウは答えられない。
喉がきゅっと固くなり、声が出ない。
少年は、肩をすくめて、そして名乗った。
「ヤマトタケル」
名が胸骨の裏で鳴った。忘れていた音程が、ぴたりと戻る。
闇が、少しだけ明るくなる。
音のない光が、輪郭に沿って広がっていく。ユウは、その名を胸の奥で繰り返す。
ヤマトタケル。
それは、どこか遠い古語の響きではなく、手ざわりを伴った現実の名だった。
「思い出した?」
少年はゆっくり尋ねる。
ユウは頷く。胸の痣が、微かに脈を打った。
少年――ヤマトタケルは、抱えた剣の鞘に頬を寄せるようにして、言葉を継いだ。
「これは、記す剣。いろんな人の“名”を覚える。失くした名も、消されかけた名も、ここに集まって、帰る場所を探す」
「……ヴィシン」
ユウは、鞘の金具の擦れ跡に目を落としながら呟く。指先に、確かな重さの記憶が戻ってくる。
少年はコクリと頷いた。
「ぼくは、拾ってもらった。寒くて、お腹が鳴って、いつも眠かった。あの人は、ぼくに立ち方を教えてくれた。息のしかた、手の握り方、字の読み方。ご飯の分け方。世界の話。嘘のつき方と、嘘の見分け方」
闇の壁に、薄い映像が浮かぶ。
雪の降る日、凍った川の上を走らされる少年。
藁の匂いがする道場で、木剣を握る小さな手の震え。
夜、薄い毛布にくるまれ、遠くの篝火を見つめるあの瞳。
温かい掌が頭をくしゃりと撫でる感触。
厳しい声が、しかしどこか笑っていた響き。
あの“団長”の輪郭だけが、柔らかく切り取られている。
ユウは息を詰めた。喉の奥が熱くなる。
少年は、その映像の向こうを見ながら、言葉を続けた。
「ある日、胸に花びらが浮いた」
少年は自分の胸を、指先でそっと押さえる仕草をする。
「痛くも痒くもないのに、ずっとそこにある。あの人は、目を逸らした。ぼくは、何も聞かなかった」
闇に、沈黙が降りる。
その沈黙は重くはない。けれど、長い。
少年が、ユウを見上げる。
「ぼくは、守りたかった。名前をもらった人たちを。器の小さいぼくだから、全部は無理でも、せめて“終わらない苦しみ”だけは、終わらせたかった」
“終わらせる”。
ユウの胸の奥で、その言葉が輪を描く。
壊すことと、終わらせることは違う。
取り消すことと、還すことは違う。
“正しく閉じる”。――その意味が、ちらちらと形を持ちはじめる。
少年は、剣を抱き締め直す。
「だから、ぼくはここに残る。記すことと、還すこと。ぼくは“剣”で、きみは“人”。二人でひとつ」
ユウは、静かに問う。
「……二つの名前は、同時に在っていいのか」
少年は、当たり前のように頷いた。
「うん。だって、どっちもきみだから。どっちかだけが本物じゃない。二つとも、本物」
ユウは目を閉じる。
闇の水面が、内側から震えたように揺れる。
遠い雪の匂い。藁の匂い。油の匂い。火の粉。木剣の乾いた音。腹の虫の鳴き声。誰かが笑う声。誰かが泣く声。
全部が、自分の中に“戻ってくる”。
少年が、最後に一歩近づいた。
小さな手が、ユウの衣の裾を、くいと引く。
「ねえ、もう一度、名前を聞かせて」
ユウは目を開ける。闇の中の少年を、まっすぐ見据える。
「――緋凪ユウ」
少年は小さく笑い、胸を張った。
「――ヤマトタケル」
名が交差した瞬間、闇の底に光が落ちる。
静かな、しかし抗いようのない上昇感。
身体の輪郭が戻り、指先に血の温度が戻る。
(帰る)
ユウは、はっきりと思った。
少年が、ほんの少しだけ寂しそうに笑う。
「行っておいで。ぼくは、ここで“記すよ”。きみが“終わらせる”ところまで、ちゃんと覚えておくから」
ユウは頷く。
光が強くなる。
遠くで、誰かの呼ぶ声――風に溶けた仲間の名と、温かい呼び声。
闇が、裂けた。
⸻
馬車の中に、光が差している。
ユウはゆっくり瞼を上げ、みんなの顔を順に見た。
クロエは目を細め、セラフィムは息を飲んでいる。リーシャは唇を押し当て、マニックはこぶしを握りしめている。ブランドは、ただじっと聞いていた。
「……そういうことが、あった」
ユウは短くまとめるしかなかった。
“説明”に変えた途端に、どこかが嘘になる。そんな気がした。
しばし、誰も言葉を発さない。
やがて、リュナが小さく息を吐いた。
「だから、わたし……無事だったのね」
ユウは瞼を伏せ、頷く。
「――“名”が、帰る道を覚えたから」
セラフィムが目を細める。
「ユウ、あんた……」
言いかけて、言葉をやめる。
ただ、ゆっくり頷いた。「分かった。今は、それでいい」
クロエは、ほんの少しだけ笑った。
「帰ったら、あたしは“今日のここまで”だけ報告する。――それでいい?」
ユウは視線を上げる。
窓の外、森の切れ間から陽が一筋こぼれた。
「お願いがある」
みんなの視線が集まる。
「さっき話したことは、外に出さないでほしい」
マニックが瞬きをした。「どうして」
ユウは短く考え、言葉を選ぶ。
「……見えない“誰か”に、先に手札を見せたくない」
セラフィムが、ほとんど聞こえない声で呟く。
「――“誰か”」
クロエは視線を窓へ向けたまま、軽く頷いた。
「分かった。あたしも、みんなも。ね?」
「もちろん」
リーシャが応じ、マニックが拳を胸に当てる。
ブランドも、静かに頷いた。「俺も。……ユウ、ごめん。あの時のことは、何度謝っても、足りない」
ユウは首を横に振る。
「もう、分かってる。戻ってきたお前の“今”が、答えだ」
ブランドは、唇を噛み、目を伏せ、それからまっすぐユウを見た。
「ありがとう」
馬車は、平原へ出る。
遠く、塔が一本、空を指している。高く、白い、冷たい塔――本部の境界を告げる尖塔だ。
風が変わる。街の匂いが混じる。人の生活の温度が、ほんのわずかに戻ってくる。
ユウは胸に手を当てた。
花びらの痣は、静かにそこにある。熱はない。ただ、ある。
(ヤマトタケル。緋凪ユウ)
頭の内側で、二つの名が静かに並んでいる。どちらも自分で、どちらも嘘ではない。
“剣”は記し、“人”は終わらせる。役割は、分かたれているようで、重なり合っていた。
「帰ったら、まずは休め」
クロエがぽつりと言う。
「それから――次を考えよう」
ユウは頷く。
視線の端で、リュナが微笑んだ。
その微笑みは、どこか懐かしく、どこか新しかった。
「ねえ」
リュナが小さく声を立て、ユウを見つめる。
「さっきの話、ありがとう。わたし――やっぱり、信じていたい。わたしたちの選ぶ“終わり”が、誰かの始まりにちゃんとつながるって」
ユウは、短く「うん」と答える。
言葉はそれで十分だった。
馬車は、塔へ向かって進む。
空は高く、風は冷たい。
尖塔の陰に、うっすらと人影が動いた気がしたが、次の瞬間には陽光の白に溶けた。
ユウは、目を閉じる。
闇の底で名乗った少年の声が、まだ耳の奥で柔らかく響いている。
――行っておいで。
――ぼくは、ここで“記す”。
(ああ)
胸の奥で答えて、ユウは目を開けた。
進むべき道は、まだ遠い。けれど、足元はもう、ちゃんと“自分の重さ”を受け止めていた。
塔の鐘が、ひとつ、遠くで鳴る
鐘が鳴った瞬間、胸の痣がわずかに疼いていた。
(つづく)
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