第1章 ヴァンパイア・スクール・ララバイ

柔らかいものにはストレスを緩和する効果があります

「はぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~……………………………………」



 我ながら辞書に見本として載せたいくらいのクソデカ溜息。……突っ伏した机の天板に跳ね返った息は、歯磨き粉のミント成分がふんだんに残っていて、半開きの眼に沁みる。



 5秒。10秒。……30秒。



 ……教室の最後尾端っことはいえ、一応はクラスメートが嘆息しているというのに……誰ひとり、声をかけてくる子はいない。不機嫌に頬を膨らませながら顔の角度を変えてみると、藍色のセーラー服と黒の学ランとが混在する教室は、今日も今日とて賑々しく楽しげで和気藹々としていやがった。くそぅ。



 みーんな、あたしの溜息になんか気付いていないみたいに、友達同士でお喋りやトランプ、スマホゲームに興じている。……欠伸が出るくらい、いつも通りの光景だ。入学式から2週間弱だけど、すっかり見慣れた普段の景色。



 そう、



 ……見慣れた、普段の光景。




 ――――やっぱり、そうだ。なにも、なにも変わっていない。




「はぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~……………………………………」




 再び机に突っ伏して、今度は息の逃げる道を作った上で盛大にぶちまける。



 ……分かってる。いいことだ。変わってないに越したことはない。急になにかが大きく変わっちゃったら、文字通り大変なことになる。それは身をもって知っている。



 けど、それでもあたしには。



『なにも変わっていない』ことこそが、今日に限っては異常なことこの上なくて……でもそんなの、全部全部。



 あたしの夢だったとか、そんな説明で事足りてしまうことで……だけど――




「…………はぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~……………………」








「……おぉい夜霧よるきりぃ。朝っぱらから隣ではぁはぁ鬱陶いんやけど?」





「…………」




 右隣の席から聞こえてきた声に、重い頭をぐるりと回す。



 心底鬱陶しそうな言葉を吐いてきたそいつは、台詞以上に鬱陶しそうな顔をして、あたしを睨みつけていた。……多分。眉毛が鋭角だから、睨んでいるんだと思う。似非ミックス関西弁のこの男は、キツネみたいな糸眼だから、表情が非常に分かりづらいのだ。




「なーにをそないに机めがけて幸せの叩き売りかましとん? なんぼ息拭きかけられたかて、机は我に成績アップの加護なんかくれへんで?」



「……………………はぁ」




 別に最初から、こいつからの慰めだの心配だのは期待していなかったけど。



 糸眼関西弁男こと真桑まくわしょうくんを、あたしはいつも通りスルーすることにした。……本当、人を煽る時だけはよく回る口だ。




「……なんや、張り合いないなぁ夜霧。いつもやったらきゃんきゃん喚いてきて面白いのに……今んところ、ほんまにただの鬱陶い女に成り下がっとるで? 我――」








「あら、相変わらずデリカシーの欠片もない発言のオンパレードね、硝」






 甲高い、鈴の鳴るみたいな、でも落ち着き払った厳かな声。



 もう一度、硝くんの方を見てみる。……聞こえてきた通り、凛とした紫の長髪が靡かせた、座る硝くんよりなお背の低い彼女は、眠そうな目で、煽りカスを睥睨していた。



 多少背丈では勝るものの、彼女の小さな背に隠れるようにして震えている、銀髪の女の子を引き連れて。




「リルが深々と溜息を吐いているだなんて、入学してから初めてのことじゃない。いつもはあり余るほどに元気溌剌だっていうのに……明確に調子のおかしな女の子相手に、『鬱陶しい』とは随分なご挨拶だと思うけど?」



「おーおー、お優しいことやのう、黒狼くろかみ




 背後を取られてもなんらブレることはなく、硝くんは生意気な態度を崩さない。



 挑発するみたいなその言葉を、なごちゃん――――黒狼和は、欠伸交じりに聞いていた。




「いっつも眠うて構わんっちゅー面しとる我に、そないなこと言われるとは思わんかったわ。なんや黒狼、普段から儂に心配でもしてほしかったっちゅーんか?」



「……冗談。そんな必要、毫ほどもないわ。知っているでしょう?」




 ……見えないけれども確かに、舌戦の火花が散っている。……朝から元気だなぁ、ふたりとも。あたしは無理だ。口喧嘩なんて元から苦手だけど、今日は特に無理。




「あっ、あの、あのあのあの…………大、丈夫、ですか……? リルさん……」




 と。


 てってってってっ、まるでうさぎが飛び跳ねるみたいに。



 銀髪の女の子――――葫比こころほうちゃんが寄ってきてくれて、あたしの顔を、今にも泣きそうな顔で覗き込んできた。



 あぁいや、泣きそうなのはいつも通りか。



 いっつもびくびくおどおどしていて、びびりで恐がりで臆病なんだよなぁ、この娘。顔可愛くて胸も大きいから、よく男子から声をかけられているけれど、すーぐ逃げちゃうし。



 ……胸。あたしのよりずっとずっと大きい、柔らかい、おっぱい……。




「…………褒ちゃん、気を付け」



「ふぇっ? ひゃ、ひゃい……」




 ……心配になるくらい、褒ちゃんは従順に従ってくれた。



 よかった。正直、自分の腕とか机とかじゃ、役者不足だったんだ。




「ふぇっ!? りりっ、リルしゃんっ!?」



「ふぅ…………すぅー……ふはぁ……」




 許可取りももう面倒臭くって。



 あたしはなーんの疑いも持っていない褒ちゃんの胸へ、ぱふっ、と抱きついた。



 はぁ……甘い、いい匂いがする。背中へと腕を回し、椅子が傾くくらい身体を倒し、ぎゅうっと谷間の深くまで鼻を押し込んで息を吸う。




 …………けどなぁ。




「あ、あのあの……り、リルさん、なにを……」



「ねぇ、褒ちゃん」




 もにゅ、と凹んだ部分に顎を乗せて、あたしは褒ちゃんの蒼い眼をじっと見つめた。



 ……あぁ、泣いちゃいそう。今にも涙零しちゃいそう。……本当、やめた方がいいってそういうの。銀髪で背ぇ低めで胸大きくて押しに弱いって……悪い奴に唆されちゃうよ?




下着ブラ、取っちゃっていい?」



「――――――――ふぇ?」



「いや、ワイヤーが硬くって……あと形がさ、ほら、どうしても決められちゃうから、弾力はあっても柔らかさがちょっと……ん、意外と他人のブラホックを外すのって難し――」




「大概にしなさい、リル」




 すぱぁーん……っ、って。




 やられたあたしですら気持ちよくなっちゃう快音を奏でて、和ちゃんがあたしのおでこをひっぱたいてきた。



 痛くはない。ただ、衝撃だけが頭蓋骨も脳も貫いていったようで、気付けばあたしは椅子の角度を直され、背筋をピンと伸ばさせられていた。




「まったく……いくら調子が悪いからって、心配してくれた友人の下着を公衆の面前で剥ごうとするのはやめなさい。図に乗り過ぎよ。……褒も、嫌だったら嫌と言いなさい」



「あ、う、え、と……あ、あう、あう……」




 上手く言葉を紡げなくなっちゃった褒ちゃんは、割り込んできた和ちゃんの背中に再び隠れてしまった。……背中、頻りに気にして弄ってるけど、その所為で前屈みになっちゃって、胸がぷるぷる揺れているのには、どうやら気付けていないご様子。




「えー……だぁってさぁ」




 重力に従った振り子みたいな震えが、どうにも酷く、柔らかそうで――




「褒ちゃんのおっぱいって凄く丁度よさそうで――――あ痛っ」




 ――本能のままに伸ばしていた手が、和ちゃんの平手ではたき落とされる。




「言い訳しながら揉もうとしない。やってることがセクハラ親父じゃないの」



「むぅ……いっつも和ちゃんが褒ちゃんにやってることじゃんかー」



「私は許可を取っているもの」



「ふぇっ? あ、あのあの、な、和さん、わたし、その、きょ、許可とか出した覚え、ないですけど……」



「で? 一体私のおも……褒の胸がなにに丁度いいって言うの?」



「い、今、おもちゃって言いかけませんでした……!?」



「んー……言ったら使っていい?」



「まぁ回答によるわ」



「あ、あのあの、わ、わたしの意思は……?」



「あのねぇ……ふわ、ぁぁ――――褒ちゃんのおっぱいさぁ……枕にしたら、丁度いいなぁって、さぁ……」




 褒ちゃんの甘い香りか、それとも和ちゃんの一撃か。



 どっちが原因か分からないけど、余計ほわほわとしてきた頭であたしは答えた。……ダメかなぁ、褒ちゃん本人は押せばいけそうなんだけどなぁ。



 腕や机じゃ硬くて――――と。



 うつらうつら揺れていたあたしのぼーっとした視界で、ふたりが、眼を剥いていた。




「? あれ? どうかした? ふたりとも」




 褒ちゃんが驚くのは珍しくない。リアクションがいいのもこの娘のチャームポイントだ。



 けど、和ちゃんまで眼を見開くなんて、もしかしたら初めて見たかも。



 基本、なにがあってもクールで理知的なのに……そんなにあたし、変なこと言った?




「……枕って……リル、あなた…………まさか、?」



「……? う、うん……ちょっと――」



「だ、大丈夫なんですかっ!? リルさんっ!!」




 間に割って入っていた和ちゃんを押し退けながら、褒ちゃんがあたしの肩を掴んでくる。



 ……思ったより力が強くてびっくりなのと同時に、脳が混乱で少し覚醒してしまった気がする。いや、そりゃまぁ心配してくれるのは嬉しいけど、そんなに? そこまで?




「な、和さん……り、リルさんが……し、始業間際、なのに……、だなんて……!」



「えぇ、異常が過ぎるわ。いつも夜10時半には眠りに就き、8時間半の睡眠時間を確保しているはずのリルが――――、ですって?」



「は、はい……! 手作りのお弁当は玄米と野菜が中心で、カロリー計算もばっちり。夜寝る前にはジョギングを欠かさない、人生の大半を健康のために捧げていると言っても過言ではないリルさんが! ……本当に、本当に大丈夫ですかっ!?」



「手遅れなレベルで健康ヲタクなリルが、眠気を訴えている……? 新種の奇病かしら。それとも地球の磁場が脳に影響を……?」




 …………あの、真剣な表情で悩んでくれている中、誠に恐縮なのですが。



 あたし、そういう風に見られてんの? 友達に? え、マジで?




「な、なにか悪いものでも食べたですか!? 睡眠の質が下がっちゃったりするもの……」



「いいえ褒、リルがその辺りのリサーチを欠かすはずがないわ。……どこか変なところにでも行ったのかしら? 妙な結界に触れたとか、呪力を受けてしまったとか」



「そ、それとも具合が悪いとか……!? っ、り、リルさん、早退してわたしの家に来るのはどうです!? いろんな薬もあるですし、それ以外の対処法もいろいろ――」



「野良のに噛まれた……訳ではなさそうね。寄生虫や微生物の影響も考慮しないと――」




 いやいやいやいや怖い怖い怖い怖い!


 な、なんでふたりして真剣な顔して迫ってきてんのさ! そんなに異常かなぁあたしが眠いって言うの! っ……そ、そりゃあ、その原因は異常も異常、最早超常だけど。



 で、でもそんな、窓際に追いやられるほど詰められる覚えはないのだけど!? あ、あたしはただ、ちょっと健康意識が高いだけの普通の女子高生であって――









「ごちゃごちゃ鬱陶いこと考えとんのぉ我ら。単に眠れんかったってだけやろ」






 ――そんな単純な事実を、理解して指摘してくるのが。



 蚊帳の外になっていた硝くんだったのは、正直、癪だけど、意外だし、助かった。



 美少女ふたりから真剣に激詰めされるの、意外と怖い。




「…………眠れ、なかった……です?」



「……なにを言っているの? 硝。あなただったらいざ知らず、日々を健康のために捧げている夜霧リルが、睡眠時間を削っただなんてそんな、そんなこと――」



「我らは夜霧のことをなんやと思とるんや……? っちゅーか、その至近距離でなんで気付かへんねん。夜霧の眼ぇの下、隈ぁできとるやろがい」



「ふぇっ!?」




 振り向いたまま硬直した褒ちゃん――――対照的に、和ちゃんの行動は迅速だった。



 あたしの顎を小さな手で掴み、固定した上で眼を覗き込んでくる。……正確には、その少し下、なのだろうけど。



 ……単純に顔のいい女の子とガチ恋距離なの、その気がなくてもドキドキするんだけど。




「……確かに、周囲の皮膚と比べて彩度が落ちている箇所があるわね。……つまりリル、あなた、『眠ったのに眠い』のではなく、そもそも『眠れていなかった』の?」



「っ……う、うん……ちょっと、寝るの遅くなっちゃって――」




 っていうか、そうか、和ちゃんと褒ちゃんが困惑してたのって、『あたしは夜しっかり眠っている』って前提があったからなのか。ちゃんと寝たはずなのに『眠い』って言ってる、って思ってたならまぁ、あの態度も分か…………いややっぱ分かんな――




「りっ、リルさんっ!! なにが……なにがあったですかっ!?」




 机、が、ぶっ壊れるんじゃないかってくらいに強く強くぶっ叩いて、褒ちゃんが叫ぶ。




「リルさんが、ね、眠れなくなるなんて……なにか、なにかあったんですよねっ!? い、一体なにが――」



「お、落ち着いてよ褒ちゃん! 別にそんな、大したことじゃ――」



「ふぅん、そう。『大したことじゃ』ない、程度のことは、少なくとも起こった訳ね」



「っ…………」




 ぼそっ、と和ちゃんが、でもしっかりと聞こえるようなボリュームで呟いてきた。




 ……これって今、逃げ道を塞がれた?



 あの、その……できれば話したくないんだけど。こんな、だって、本当に夢みたいな話で、現実味のない嘘みたいな出来事で。



 そんなことで寝るのが遅れて、睡眠不足になっただなんて――




「時にリル。あなた、カタルシス効果という言葉を知っているかしら?」




 ――と。



 まるであたしの心を見透かしたように、和ちゃんはそんなことを言ってきた。




「……確か、嫌な出来事を人に話すことで、マイナス感情を払拭できるみたいな心理効果……だっけ……?」



「さすが、保健体育だけは得意なだけある。なら、私の言いたいことは分かるわね?」



「…………で、でも――」



「別に強制はしないけれども……でも、いいのかしら?」




 さらさら、腰よりも長く伸ばしたあたしの髪を撫でながら、和ちゃんは言う。




「不眠に陥るほどのストレスの原因を、抱えたまま今日も夜を迎えるの? これから日々睡眠時間を削り続けるのかしら? 眼の下の隈も、この長く美しい青色の髪も、肌も爪もどんどんと不健康になっていくの? リル、あなた……それで、本当にいいのかしら?」



「っ…………わ、分かった、よ。話す、話すけど……でもね!」




 酷い脅迫だ。さっきのあたしの、褒ちゃんへのセクハラよりよっぽど酷い。



 ……言わなくちゃ収まりがつかないなら、譲れないラインはふたつ。



 その内ひとつは、絶対に口にしちゃいけない。あんな赤っ恥、黒歴史、二度と言葉にして堪るもんか。気心知れた友人相手にだって、絶対に言いたくない。



 だから、そこは全力でぼかすとして――――もうひとつ。








「凄く……すっごくバカバカしい話なんだからねっ!? あたしだって、夢だったんじゃないかって疑ってるくらいで……だから、だから絶対っ! 絶対に笑わないでよっ!?」





 最低限の、恥と矜持のセーフティネットを万全に敷いて。



 あたしは、語り始めた。夢みたいで嘘みたいで、自分でも信じられない昨夜の記憶。



 令和で21世紀なこの時代に、吸血鬼なんて空想に出遭ったお伽噺ファンタジーを。

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