Re:夜霧リルと健康的な吸血事情

緋色友架

プロローグ

ヴァンパイアは突然に

「…………っ!?」



「ゥ……ア、ァアア……ア、ギ、ィ、ィイイイイ…………ッ!!」




 ――――不健康、だ、こんなの。



 生まれて初めての尻餅は、腸骨がお尻を貫くんじゃないかってくらいに痛くって、遅れた反射神経が石畳に手首をこすりつけた。使い古した紫ジャージの、擦り切れる音がして――――でも、その全部をそれは、まとめて意識の外へと吹き飛ばした。



 笑うように欠けた月の下。みしみしと、ゆっくり折れていく街灯を背にして立つ――








 あまりにも、如何にもな吸血鬼の出現に――――あたしは、呼吸すら忘れていた。






「ハァ……ハァ、ハァ、ハ、ァ……ガ、ァアアアアア……イッ、ギッ、アァ……!!」




 斜面を下った先には、河を眺めながらくつろげるベンチが並んだ憩いの地。昼間ならお年寄りや子育て主婦なんかで賑わいを見せているジョギングコース。



 そのど真ん中に、は、あまりに不似合いだった。



 あたしの背丈くらいはありそうな、刺々しい蝙蝠の翼。


 俊敏に蠢いて地面を裂くように荒ぶる、悪魔のそれみたいな尻尾。


 上下共に真っ黒な服を着たそれは、血みたいに真っ赤な髪を振り乱して呻いていた。小さく、だけど確実に、あたしの方へと、ボロボロなスニーカーを前進させている。


 顔を覆う指の隙間から、時折覗く、どす黒い赫の瞳は。


 月明かりすら霞むほどに、爛々と、輝いていて――




「ハァ……ハ、ァ、ハァ、ハ、ァ……血……血ィ……血、血、ガ……血、ガァ……ッ!!」




 ――――ぼたぼた、ぼたぼた、吸血鬼は顔から零した体液で石畳を汚していた。



 ……逆光。それに街灯が折れて使い物にならない所為で、あたしからはそれが血なのか涎なのか、判別がつかない。第一、まじまじと彼を眺めていられるほど、あたしは肝が据わっていなかった。突然の非現実なハプニングに、思考が止まっていただけだった。



 血。つまりBlood。血液。



 そんな単語が、明らかに吸血鬼でしかない男の口から漏れ出てきた――――ぞわり、と身の毛のよだつ感覚が、ようやくあたしに呼吸と思考を取り戻させる。




「っ……血、って……!」



「グ、ゥガァアアアア……ッ……!! ア、ギ、ィ……血、血ィ……ッ!!」




 ――――あたしは、テレビを観ない。本も読まない。



 それでも吸血鬼っていう怪物の、概要くらいは知っているつもりだ。……まさか、現実にいるとも、いきなり街灯をへし折る勢いで飛んでくるとも、思っていなかったけれど。



 吸血鬼。ヴァンパイア。――――読んで字の如く、人の血を吸う化物。



 首筋に、長い牙を突き立てて。



 噛みついて、血を、直接、飲む――――




「っ……やだ……やだ、やだやだやだやだっ! 嫌だぁっ!!」




 手の平が擦り切れるのも、爪の先が欠けるのも厭わず、あたしは全力で後退ろうとした。



 怖い。恐い。考えただけでゾッとする。想像するだに悍ましい。



 あぁ、なのに身体は上手く動かない。不随意筋な心臓は無闇に早鐘を打って呼吸が痛いし、手足は勝手に震えて動きが覚束ない。逃げようとしても立ち上がろうとしても、痺れて縺れて上手くいかない。



 嫌だ。嫌だ。



 血を、噛まれて、吸われるなんて、そんなの――




「ガ、ァァ……血……血、ガァ――」



「やっ、やだっ、やだやだやだやだっ!! やめっ……ぃ、やだ、来ないで…………っ、やだやだやだっ!! 嫌だってばぁっ!! なんで、そんな――――血っ、血が、血が飲みたいだけなんでしょっ!? 血が摂れればいいんでしょうっ!? だっ、だったらそんな……べっ、別にじゃあっ、血じゃなくたっていいじゃんっ!! たっ、例えばさ――」





 ――――言い訳、させてほしい。



 この時あたしは、本当に恐かったんだ。倒れそうになることにさえ気付かずに、全力で腕を首に巻きつけて、鳥肌の止まらないそこをガードするのに必死だった。ガリガリと顔面を引っ掻いて、ぼたぼたと血を垂らす吸血鬼を、どうにか追い返そうと我武者羅だった。後先とか考えている余裕なんてなかった。



 だから、咄嗟に口走ってしまった。獲物を狙うようなあの目を、どうにかあたしから逸らしたくて。




 ……まぁ、せめてもの救いになったのは。





 あたし以外には誰ひとりとして、折れた街灯を、吸血鬼を。






 あたしの妄言すらも、見聞きした野次馬はいなかったこと……くらい、かなぁ……。

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