第十話 破れた絆
隅田川の河原で雄馬は彼女と座り、刻一刻と表情を変える夕日を眺めていた。
夕焼け空は、燃えるような茜色から、夜の静けさを孕んだ深い藍色へと、柔らかなグラデーションを描きながら、ほんのり紫色の帳(とばり)を下ろし始めていた。
河原の下では、乾いた土の匂いとともに近くの高校の野球部の練習を終えた声が風に乗って聞こえてくる。「お疲れ様ー!」「あー、腹減ったな!」――はつらつとした声が、どこか懐かしい響きを帯びて耳に届く。
雄馬は遠い目をしてそっと呟いた。
「コミケ106――懐かしいな…。」
「あの子のビンタすごかったね…。」
「はは、そんなこともあったな。」
雄馬は爽やかな笑顔を夕日に向けた。沈みゆく陽光が、二人の横顔を優しく照らし、長く伸びる影が彼らの背後で揺れていた。
「そんな雄馬君が、今や日本を飛び越えて全世界が注目するグローバルな漫画家なんだものね。」
「うん…そうだね。」
雄馬は静かに視線を下ろした。
『おーい、雄馬!』不意に、少し低く響く声が風に乗って背後から届いた。 雄馬が斜め後ろを振り返ると、夕闇に溶けかけそうなシルエットが、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
落ち着いたジャケットの内ポケットから、タバコとジッポライターを取り出すと、『キン!』と心地よい金属音が響き、夕陽の残光がジッポの側面にきらめいた。 悠馬の傍に並び立つと、タバコに火をつけ、『シャクン!』と蓋を閉める。深く吸い込んだ煙が『ふーー…!』と吐き出され、淡く白い帯となって宙に漂い、そのまま緩やかな風と共に、彼らの間に広がる空気へと消えていく。
「――どうだ、漫画うまく行ってるか。」
空はもう、深い藍色へと完全にその姿を変えつつあった。再び雄馬は顔を上げて、僅かに残る夕焼けのグラデーションを見つめる。『ああ、おかげさまでね。』と雄馬はそっと呟いた。
「どうだ。俺が伝授した『藤田メソッド』は中々だろう。」
「ああ、さすがホノオだね。」
「だけど、あのシーンは『手塚メソッド』が効果的だと俺は思うんだ。」
「なるほど、『手塚メソッド』か。その方がより効果的になるかもな。」ホノオは顎に手を添えて頷く。
「あ、いたいた。雄馬先生。」
それまでの男二人のゆるい空気を打ち破るように、張りのある声が聞こえてきた。 背後から、カツカツとヒールの音を響かせながら、タイトスカートのビジネススーツに身を包んだ美咲が近づいてきた。
「またこんなところに。あんたここ好きよね、本当に。」
「美咲。」雄馬は左背後を振り向きながら応える。
「もう。急にいなくなるからアシスタントたちが大慌てよ。みんな心配してるんだから。」
「私、一応あんたの担当編集者なんだからね。スケジュール管理は徹底してもらわなきゃ。」
美咲は溜息を吐いた。その視線は、有無を言わさないような強さがあった。
「悪い、美咲。すぐ戻る。」
「はは、相変わらずの徹底ぶりのようだな。美咲」
ホノオは思わず笑みが零れる。
すると美咲は雄馬の横に腰かけた。ホノオとは対照的に、姿勢を正して。
そして微笑みながら雄馬に尋ねる――。
「ところで彼女は?」
美咲の視線が、雄馬の隣の少し開いた空間に注がれた。
雄馬も微笑みながら答えた――。
「さっきまで彼女とコミケ106の話をしてたんだけどね。きっとまた戻ってくるよ。」
「おお、コミケ106かー。懐かしいな!」思わずホノオが声を上げた。
そこへメガネ君がやってきた。
小走りで近づいてきた彼は、息を切らしているようだった。
「ホノオ先生!また作業場を抜け出して、こんなところで何してんですかー!探しましたよ!」
「週刊連載3本も抱えてて、そんな余裕はないはずです!」
「僕はホノオ先生の担当編集者として、あちこち探し回るの大変なんですからね。マジで勘弁してください!」
「香織さんも少し怒ってましたよ。」
メガネ君は中指で眼鏡を直した。その仕草には、疲労が滲んでいた。
「悪い!メガネ君。すぐ戻る!」
ホノオは携帯灰皿にタバコを押し付け火を消すとそのまま吸い殻を携帯灰皿に入れ、ジャケットの内ポケットにしまった。
「じゃあ、またな、雄馬。」
ホノオはメガネ君と共に、夕闇に沈む河原の道を、早足で去っていった。
――その日、東京は午前中から静かな雨が降り続いていた。
空は鉛色の雲に覆われ、街全体が深い憂鬱の中に沈んでいるかのようだった。雨音は、葛飾区の古い木造アパートの一室に、容赦なく響き渡っていた。
畳の上に正座した雄馬は、膝の上で固く拳を握りしめていた。
その部屋には、雨音だけが虚しく響く、静かで重苦しい空気が満ちている――。
やがて、彼の目から一筋、また一筋と、温かい雫が零れ落ち、畳の上に小さな染みを作っていった。
ポタリ、ポタリと落ちるその涙は、彼の心に降り積もった悲しみの深さを物語っていた。
畳の上には、コミケ106で得た売上金、1,573,250円が無造作に散らばっていた。一万円札、千円札、百円硬貨、十円硬貨が所狭しと広がり、光を失った瞳には、ただ虚しい紙切れと金属の塊に見えた。
――成功の証であるはずの大金が、彼の孤独を一層際立たせるように、部屋に散らばっていた。
それは、ほんの一刻前の出来事だった。
コミケ106。東京ビッグサイトの熱気は、まるで巨大な生命体が脈打つようだった。
雄馬とホノオ、二人のライバルが、互いの意地とプライドを賭けて、同人誌漫画の販売本数対決に挑んだ。互いに900部、販売価格は1798円。会場の隅々にまで、彼らの熱い想いが満ちていた。
初日、ホノオは度肝を抜くパフォーマンスで会場を席巻した。
彼のブースは、まさに祝祭の中心となり、SNSは瞬く間にその話題で埋め尽くされた。ウェブニュースにまで取り上げられ、コミケに無関心だった層までもが、ホノオの元へと押し寄せた。
二日目には、テレビ、マスコミ、週刊誌の群れがビッグサイトに殺到。ホノオはそれを好機と捉え、観客を巻き込んだオタ芸で会場全体を巻き込み、その中心で香織が満面の笑みを浮かべていた。
一方、雄馬のブースにも、嵐のような熱気が押し寄せていた。
『続!夕焼けニャンニャん』の可愛らしい絵柄は、若い女子たちの心を鷲掴みにし、SNSを通じて瞬く間に拡散していった。
二日目には、雄馬のブースには若い女子たちが押し寄せ、熱狂的なファンは観賞用、保存用、実用用と、一人で3冊も購入していく者まで現れた。中には、転売目的で大量に買い占める者も現れ、異例の事態に、美咲が「一人5冊までの購入」という独自のルールを定めるほどだった。
結果、雄馬は875部、ホノオは759部を売り上げ、雄馬の圧倒的な勝利で幕を閉じる。
ホノオは潔く敗北を認め、「よくやった。今度はプロの漫画家の舞台で勝負しよう」と、二人は固い握手を交わした。その瞬間、会場の熱狂は最高潮に達し、雄馬の勝利を祝福しているかのようだった。
しかし、その勝利は、雄馬にとってあまりにも大きな代償を伴っていた。
彼はホノオとの勝負には勝ったものの、恋人である香織には愛想を尽かされ、別れてしまったのだ。もともと新刊『続!夕焼けニャンニャん』は、雄馬と香織、そして香織の親友である美咲の三人で、共に夢を追い、共に汗を流して作り上げた結晶だった――。
――だが、香織は雄馬の元を去り、残されたのは雄馬と美咲の二人だけとなる。
後日、会計係を務めていた美咲が、売上金額を改めて確認するために雄馬の部屋を訪れた。
美咲は、1,573,250円もの現金が無造作に入れられた、ずしりと重い箱を雄馬の部屋に運び込んだ。
「すごい金だな……!」
あまりの現金の多さに、雄馬は目を飛び出させるように驚愕した。しかし、美咲の表情は冷たく、何の感情も浮かんでいなかった。
「じゃあ、出資比率で売上を三人で分けようぜ。」
「確か、美咲は約71.43%で、俺と香織は約14.29%だったよな。」
雄馬は言いながら、どこか落ち着かない様子だった。
「いいわ。これ全部あなたにあげる。」
美咲の言葉に、雄馬は「え?」と呆然と応じた。
「ど、どうしたんだよ。こんな大金だぞ!」
雄馬は、目の前の現実が信じられないといった風に言葉を絞り出した。
「それで私とあんたの関係もおしまい。」
美咲の言葉は、氷のように冷たかった。
「え!」
雄馬の驚きは、絶望へと変わっていった。美咲は雄馬を鋭く睨みつけ、その視線には明確な怒りが宿っていた。
「あんた、私の親友の香織を泣かしたでしょう。」
美咲の声には抑えきれない憤りが込められていたが、その鋭い視線の奥には、雄馬への割り切れない感情が揺れていた。
「あのあと彼女から事情を聞いたわ。私、親友を泣かす人は絶対に許せないの!」
美咲は、現金が入った箱からおもむろに五万円だけを抜き出した。
「ああ、そうそう。これだけ頂いていこうかしら。これ、あとで香織に返しておくわ。あとはあんたが全部、自由に使えばいいわ。良かったね大金が手に入って!」
その言葉には、皮肉と侮蔑が込められていた。
「じゃあ、さようなら。」
美咲はそう告げると、雄馬に背を向けた。彼女の心は、親友への義憤と、愛する人を傷つける苦しさで引き裂かれそうだった。
「ちょっと待てよ!美咲まで抜けてしまったら俺のプロの漫画家の夢はどうなるんだよ!」
雄馬は必死に声を張り上げた。彼の声は、懇願にも似ていた。
「あの『続!夕焼けニャんニャん』は、俺だけの力じゃない。香織と美咲も手伝ってくれたからあんな素晴らしい作品が出来たんだ。」
「でも、あんたは私の親友を泣かした。」
「私はそれが許せないの!」
美咲の声は、一切の妥協を許さなかった。
「何があったか知らないが、俺は香織に事情を聞いてあとで謝ろうと思ってる。」悠馬は、縋るように言った。
「あんたまだわからないの!?」美咲の怒りが頂点に達した。
「私はあなたと香織と三人で同人漫画を描いてきて、ずっと見てきたわ。」
「あんたは自分本位過ぎるのよ!近くで見てて痛い痛しいほどにね!!」
美咲の言葉は、雄馬の胸に深く突き刺さった。
「じゃあ、私もう、あんたとは口利かないから。」
そう言い放つと、美咲は雄馬の部屋を後にしようとした。
「待ってくれ!美咲!」
雄馬は崩れ落ちるように叫んだ。
「俺の漫画家の夢はどうなるんだよ!」
「お前たちの力も必要なんだよ!」
「俺だけではプロの漫画家にはなれない!」
「甘えてんじゃないわよ!そんなこと私は知らないわ!」美咲は振り返りもせず、冷たく言い放った。
「じゃあ、さようなら。」
美咲はバタン!と勢いよく玄関のドアを閉めて出て行った。その音は、雄馬の心臓を直接叩くように響き渡り、静寂の中に吸い込まれていく。
雄馬はその場に崩れるように腰を下ろし、深い絶望の中で涙を流した。
窓の外では、朝から降り続く静かな雨が、一層その勢いを増し、アスファルトを打ち付ける音が雄馬の耳に重く響いていた。空は鉛色の雲に覆われ、街全体が深い憂鬱の中に沈んでいるかのようだった。
時を同じくして、自宅に戻った美咲もまた、部屋のドアに背を預けてずるずると崩れ落ちた。
彼女の瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちる。
「ごめんね…雄馬君……。」
膝を抱え、美咲は一人、部屋の中で嗚咽を漏らした。
美咲は元々、親友である香織と雄馬の恋のキューピッドだった。だが、三人で同人漫画を制作するうちに、雄馬の愛くるしい表情や優しい性格に惹かれ、いつしか彼に恋をしていた―。
親友の香織の恋を応援する立場ゆえ、自分の本当の気持ちを打ち明けられずにいたのだ。
雄馬と香織の関係が不仲になっていることに美咲は気づいていたが、香織の恋を邪魔することなどできるはずもなかった。三人で行動を共にする日々は、美咲の心を複雑な葛藤へと陥れ、常に苦しめていた。
雄馬の部屋を後にした美咲は、香織に五万円を返しに行った時、感情が抑えきれずに泣き崩れた。「雄馬くんに酷いことを言ってしまった」と。美咲の涙と告白を聞いた香織は、「美咲…」とだけ呟き、その胸は複雑な心境で締め付けられるほど切なくなった――。
第十話 完
第十一話に続く
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