第三話 新たな筆
――真冬の東京郊外。昼日中の柔らかな光が差し込むはずの窓の外は、どんよりとした曇り空が広がっていた。
時折、窓を叩くように吹き付ける冷たい風が、まだ冬の終わりを告げていた。部屋の中はしんと静まり返り、耳を澄まさなければ聞こえないほどの、微かな生活音がどこか遠くで響いていた。
そんな静寂の中、悠馬はゆっくりと意識を取り戻した――。
まず感じたのは、全身を走る鈍い痛みだった。そして、次に目に飛び込んできたのは、見慣れない白い天井だった。自宅のそれとは違う無機質なその景色を、悠馬はぼんやりと見つめながら瞼を開く。
ここがどこなのか、なぜ自分がここにいるのか、すぐに思い出せない。彼の意識は、まだ深い霧の中にいるようだったが、それでも、痛みを感じながらも、腕や足に巻かれた清潔な包帯が目に入り、丁寧に手当がされていることに微かな安堵が広がった。
その時、静かに部屋の扉が開き、一人の大人の女性がすっと入ってきた。
彼女の動きには無駄がなく、流れるようだった。
悠馬の傍に音もなく近づいてくるその姿は、まるで静かに咲く一輪の花のようだ。彼女からふわりと漂う清潔で微かな花の香りが、荒んだ悠馬の心をそっと撫でるように通り過ぎた。
「気が付いた?」
落ち着いた、しかしどこか芯のある声が鼓膜に響く。悠馬は、その声に促されるように視線を上げ、彼女の顔を見た。整った顔立ちに、知性を感じさせる穏やかな眼差し。その肌は驚くほど滑らかで、彼女が纏う白衣は、その美しさを一層際立たせていた。
まさに「大人の女性」と呼ぶにふさわしい佇まい。 生まれて初めて出会う、そんな雰囲気を持つ女性に、悠馬の心臓は小さく――しかし確実に脈打った。見慣れない状況、予測不能な出会い、そして目の前の女性が放つ圧倒的な存在感に、彼は少し戸惑いながらも、微かに胸が高鳴るのを感じた――。
「――あなたは?」
か細く、掠れた声で尋ねるのが精一杯だった。
女性はふわりと微笑んだ。
「私は、河村(かわむら)沙織(さおり)。年齢は27歳」
そして、彼女の視線が悠馬をまっすぐに捉える。
「あなたは、村上(むらかみ)悠馬(ゆうま)君。年齢は18歳。福井県在住、福井県立〇〇高校、3年B組、で間違いないかしら?」
悠馬は、自分の全てを見透かされたような感覚に陥り、思わず「え?なぜ知ってるんですか?」と驚きを隠せない。すると、沙織は手に持っていたものを悠馬に見せた。それは、見慣れた彼の高校の生徒手帳だった。彼女は笑顔でそれを悠馬に差し出す。
「あなたの荷物の中に入っていたわ。ここは私が開業している接骨院よ」
簡潔な説明に、悠馬ははっとして、ようやく自分が置かれている状況を少しずつ理解し始めた。
その間も、部屋の隅に置かれたストーブの上で、ヤカンが静かにカタカタと規則的な音を立てていた。その微かな音が、奇妙なほどに耳に残る。
悠馬の足元からは、微かな「ゴロゴロ……」という喉の音が聞こえてきた。視線を向けると、見慣れた小さな黒い猫、ノラが丸まって彼の足に擦り寄っている。
「ノラ……!」
小さくつぶやくと、悠馬の心は、張り詰めていた糸がふっと緩むように、安堵に包まれた。
沙織は、生徒手帳の情報と悠馬が倒れていた場所を照らし合わせ、「福井県在住の悠馬君が、どうしてあんなところで、あんなことしてたの?」と、穏やかな口調で問いかけた。
悠馬は、これまでの全てを語り始めた。
漫画家への夢、父親との衝突、家出、そして極限の旅路とノラとの出会い、そして東京で力尽きて倒れるまでの経緯を、途切れ途切れに、しかし必死に説明した。
語り終えた後、静かな沈黙が訪れる。
ストーブのヤカンの音だけが、まるで悠馬の胸の奥で響くように、カタカタと鳴り続ける。悠馬の眼はじわりと潤み始め、やがて大粒の涙が溢れ出した。
彼は、もうどうしていいか分からないという絶望感を、「もう、どうしていいか、わからないんです……」と、幼子のように声を震わせながらつぶやく。
ノラは、悠馬の涙を感じ取ったかのように、小さな頭を彼の足にぐっと押し付けていた。
「あら?男の子がそれぐらいで泣かないの」
沙織はそう言いながらも、悠馬の頭を優しく抱きしめた。
その温かい腕の中で、悠馬は子どものように、嗚咽を漏らしながら泣き続けた――。
震える肩が彼女の腕に伝わり、一度は全てを諦めかけた少年の、剥き出しになった絶望と悲しみがそこにあった。
沙織は、その震えが落ち着くまで、ただ何も言わず、悠馬を抱きしめ続けた。
しばらくして、悠馬の嗚咽が少しずつ治まると、沙織は彼の心境を整理するように、穏やかな声で語り始めた。
「悠馬君が漫画家を目指していること、お父様がそれに反対していること、東京に持ち込みに行ってダメだったこと…そこまでは分かったわ。」
ストーブのヤカンの音が、再び部屋に静かに響く。
悠馬は、彼女の腕の中で、僅かに顔を上げた。
沙織はそう切り出すと、悠馬の将来の選択肢を提示する。
「大学に通いながら漫画家を目指すこともできるし、大学に行かずに漫画家を目指してもいい。」
「あるいは、もし漫画家としてデビューできずに路頭に迷うことになっても、人間は知恵を働かせれば、どんな状況からでも這い上がることができるものよ。」
彼女の言葉は、まるで冷たい水を浴びせられたように、悠馬の思考をクリアにしていく。その声は冷静で、感情を揺さぶることはないが、確かに彼の混乱を整理してくれる力があった。
「だから、どの道を選んでも、それは悠馬君の自由だと私は思うわ。」
彼女の言葉には、確固たる信念が宿っているように感じられた。
悠馬は、その言葉に、自分にはまだ選択肢があるのだという、微かな光を見た気がした。
しかし、その後に彼女は真剣な眼差しで悠馬をまっすぐに見つめ、問いかける。
「だけど、よく聞いて?」
その一言で、部屋の空気が張り詰めたように感じられた。
ヤカンの音さえも、一瞬止まったかのようだ。
「今ごろ、悠馬君のお父様やお母様は、きっとすごく心配していると思うわ。」
「本当に、眠れないほどにね。そんな風に両親を心配させたまま、好き勝手に生きていいのかしら? それもあなたの自由だけれど……」
その言葉は、悠馬の心臓に、まるで直接突き刺さるように響いた。
頭の中で、父親の怒鳴り声や、母親の悲しむ顔が鮮明にフラッシュバックする。
自分の夢や苦悩ばかりに囚われ、親がどれほど心配しているか、その現実から目を背けていたことに、彼はハッと気づかされた。
「自分の行動が間違っていたことに気づきました……本当に、ありがとうございます」
悠馬は、心から感謝の言葉を絞り出した。
彼の目から、再び熱いものが込み上げてくる。
しかし、今度は絶望の涙ではなく、後悔と、そして気づきへの感謝の涙だった。
「あの、もしよかったら、電話を貸していただけませんか? スマホのバッテリーが切れてしまって……」
沙織は何も言わず、傍にあったスマートフォンの充電器を外し、悠馬に差し出した。
震える手で慣れないスマートフォンを受け取り、自宅の番号をダイヤルする。数コール後、電話に出たのは、悠馬が最も聞きたかった、そして最も聞くのが怖かった声だった。
「もしもし……!」
電話の向こうから聞こえてきたのは、安堵と心配が入り混じった母親の、嗚咽混じりの泣き声だった。
その声を聞いた瞬間、悠馬の目から再び大粒の涙が溢れ出し、ポタポタとシーツにシミを作る。
「ごめん……本当に、ごめんなさい……」
彼は、ただそれだけを絞り出すのが精一杯だった。
母親の泣き声と、悠馬の謝罪の言葉が、冬の静かな部屋に響き渡った。
その後、悠馬は沙織に故郷までの交通費を借り、家路についた。
その際、悠馬の命を救い、世話をしてくれた彼女に、かけがえのない相棒であるノラを託し、彼女がノラを飼うことになった。
ノラは悠馬の足元を何度も擦り、小さな別れを惜しむように鳴いたが、悠馬は心を鬼にして彼女に別れを告げた。
故郷に戻った悠馬は、母親との涙の再会を経て、自身の行動を深く反省した。
父親もまた、言葉こそ少なかったが、安堵と、息子への理解を示しているようだった。
悠馬は、河村沙織の言葉を受けて、今後は家族に心配をかけない形で夢を追い続ける決意を固める。
彼の部屋の壁には、達筆な字で書かれた「しばらく漫画封印!」と書かれた紙が貼られた。
それは、彼自身の決意の証であり、新たな覚悟の象徴だった。
悠馬は漫画のことは一旦忘れ、大学合格に向けて猛勉強に打ち込む日々を始める。
教科書を開き、問題集を解く合間、ふと目に留まるその紙に、彼は固く拳を握りしめた。東京のどの大学でも良かった。
ただ、自分を支えてくれた人たちの期待に応え、親にこれ以上心配をかけないため、そしていつか再びペンを握る日のために、彼は必死だった。
最初はまだ心の傷が癒えきっていない部分もあったが、日を追うごとに、悠馬は少しずつ元気を取り戻していった。
学校では、親友のケンとも再び笑顔で会話を交わすようになり、未来への漠然とした不安の中に、確かな希望の光が差し込み始める。
そして、大学入試の当日。
試験会場の張り詰めた空気の中、悠馬は深く息を吸い込んだ。
「開始!」という合図と共に、彼はペンを握りしめ、問題用紙へと視線を落とす。
「見てろよ、絶対に合格してみせる!」
心の中で静かに、しかし力強く誓った。彼の目には、未来しか映っていなかった。
時が流れる――。
やがて届いた合格通知を前に、悠馬は信じられないといった様子でそれを凝視し、次の瞬間、歓喜の声を上げた。
母親は、その通知を見て、悠馬が家出した日からずっと抱え続けてきた心配と安堵が入り混じり、声を出して泣き崩れた。
父親は、その場にはいなかったが、後からその知らせを聞き、表情が明らかに優しくなり、小さく息を吐いて安堵した様子だった。
家族の中に、久しぶりに温かい空気が流れる。
――そして数週間後。
春の陽光が降り注ぐ中、悠馬と両親の三人は、東京へと向かう新幹線の中にいた。悠馬がこの春から暮らすことになるアパートの内見のためだった――。
「懐かしいわね、ここ」
アパートの窓から街並みを眺めながら、母親が目を細めてつぶやいた。
福井県で暮らす両親も、若い頃は東京で大学生として青春を過ごしていたのだ。
「ああ、そうだな。ずいぶん変わったもんだが、雰囲気は残ってる」
隣に立つ父親も、どこか遠い目をして頷く。
ちょうど窓の外を、風に舞い散る桜の花びらがひらひらと通り過ぎていく。
父と母は、しばし、その花びらに若い頃の自分たちの青春を重ね合わせるかのように、静かに街の景色を眺めていた。
親の過去を垣間見た気がして、悠馬の胸にも、東京での新たな生活への期待が温かく広がっていく――。
新幹線を降り、初めての一人暮らしの舞台となる東京のアパートに到着。
部屋の扉を開けると、そこにはまだ何もなく、がらんとした空間が広がっていた。
真新しい生活への期待と、慣れない環境での一人暮らし、そして広大な東京での生活への緊張が悠馬の胸に渦巻く。
故郷の福井県とは全く異なる、大都市の喧騒がすぐそこにあることを肌で感じる。
しばらくすると、悠馬の荷物を積んだ引っ越し業者のトラックが到着し、部屋へと運び込まれていく。段ボールの山が、少しずつ生活の足跡を刻んでいく。
引っ越し作業が終了し、わずかに生活感が生まれた部屋で、悠馬は改めて東京での新たなスタートを切ったことを実感した――。
――翌日、桜並木が美しい道を抜け、悠馬は期待と少しの緊張を胸に、大学の門をくぐった。
広々とした会場で、多くの新入生と共に参加した入学式は、故郷の高校とは規模も雰囲気も全く違う、厳かな空気に満ちていた。
高揚感と共に、「ここから、本当に始まるんだ」という微かな緊張感が、悠馬の胸を締め付ける。
初めて足を踏み入れる大学の校舎は、まるで迷路のようだった。
様々な講義室、広々とした図書館、そして自分と同じように目を輝かせている多様な学生たちの姿に圧倒されながらも、新大学生としての一歩を踏み出すフレッシュな気持ちが彼を包み込む。
入学式後、校内は一転して熱気に包まれた。
各サークルが新入部員獲得のため、色とりどりの立て看板や、熱気あふれる呼びかけで勧誘活動を繰り広げている。
体育会系の掛け声、文化系の楽器の音色、様々な誘いの言葉が飛び交う中、悠馬の視線は自然と、人だかりができている一角へと吸い寄せられた。
そこは、漫画研究部のブースだった。
一度はペンを折り、「漫画封印」の紙を部屋に貼ったはずの悠馬の心が、活気に満ちたその場所を横目に、抗いようもなく微かにざわめくのを感じた。
心の奥底に押し込めたはずの漫画への情熱が、完全に消えたわけではないことを、そのざわめきが静かに、しかし確かに告げていた――。
悠馬の暮らす葛飾区の下町は、都心の高層ビル群が立ち並ぶ風景とは全く異なる、独特の表情を持っていた。アパートの窓からは、春の柔らかな日差しが差し込み、風に舞い散る桜の花びらが、新しい生活の始まりを彩るようにひらひらと舞っていた。
休日に、悠馬は少し周囲を散歩してみることにした。
細い路地、昔ながらの商店が軒を連ねる商店街、そして路地裏にひっそりと佇む古い駄菓子屋。その風景は、どこか故郷の福井を思わせる、穏やかで人情味あふれる雰囲気に満ちている。
都会の喧騒から隔絶されたかのような、その懐かしい街並みに、悠馬の心には張り詰めていた糸が緩むような、得体の知れない安心感が広がった。
まるで、故郷の縁側で昼寝をするような、穏やかな空気がそこにはあった。
高層ビル群とは全く異なる、懐かしさと新しさが入り混じる下町の景色に、悠馬は驚きと同時に、東京という街が持つ多様な表情を感じ取る。
ここは、彼にとって、新たな自分を見つけ、そしていつか、再び漫画と向き合うための、静かで温かい居場所となるだろうと感じていた――。
新しい環境での刺激を求め、悠馬は休日を利用して秋葉原へと足を延ばした。
電車を降り、駅の改札を出た瞬間、これまで経験したことのない、強烈な熱気と喧騒が彼を包み込んだ。
「うわ……!」
思わず、口からそんな声が漏れる。
目の前には、高層ビル群とはまた違う、電子部品店や漫画ショップ、アニメやゲーム関連の専門店がひしめき合い、視界いっぱいに広がる。
どこからともなく流れてくるアニソンが爆音で響き渡り、人々のざわめきと車のクラクション、足音が複雑に絡み合って、耳をつんざくような騒音の渦を作り出していた。
悠馬は、その情報量の多さに一瞬たじろぐ。
まるで巨大な生命体が脈動しているかのような街の熱気が、彼を圧倒した。
「なんだ、この街は……!」
彼は、まるで異世界に迷い込んだかのように口をあんぐりと開け、呆然と周囲を見渡した。
街行く人々も、福井県では見かけないような、流行を意識したどこかあか抜けた服装をしている。行き交う若者たちの会話に耳を傾けると、彼らが熱心に語り合っているのは、流行りのアニメや漫画、ゲームのことばかりだった。
悠馬は、好奇心に導かれるまま、とある漫画ショップの巨大なウィンドウに飾られた、アニメやゲームの美少女キャラクターの大きなポスターを見上げていた。
その鮮やかな色彩、細部まで描き込まれた衣装、そしてキャラクターの魅力が凝縮されたポーズに、彼の漫画家としての血が騒ぐ。
「……あの表情、いいな」
無意識のうちに、小さく呟いていた。
「この構図は、漫画で使えそうだ……」
彼は、周囲の喧騒を忘れ、ポスターの絵から表現のヒントを探すように見入った。この街は、彼にとって、単なる娯楽の場ではなく、新たな創作の源となり得る、無限の可能性を秘めているように感じられた。
ひとしきり街を歩き回り、五感が刺激され続けた悠馬は、少し疲れてきた。
休憩しようと、某有名ハンバーガーチェーン店でハンバーガーと炭酸飲料をテイクアウトし、雑踏から少し離れたベンチを見つけて腰を下ろした。
冷たい炭酸が喉を通り過ぎる度に、秋葉原の喧騒で熱くなった体が少しずつ冷やされていく。
彼はハンバーガーをゆっくりと頬張りながら、目の前を行き交う人々をぼんやりと眺めていた。
この街は、彼の知る東京の一部でありながら、全く別の顔を持っていた。
昼食を終え、悠馬が再び街の喧騒の中へと足を踏み入れたのは、他でもない、この秋葉原に来たもう一つの大きな目的があったからだ。
彼が目指すのは、とあるイベントスペースの前だった。
既にそこには長蛇の列ができており、ざわめく人々の声の中に、期待と興奮が混じり合っている。悠馬は、胸の高鳴りを抑えきれないまま、その列の最後尾へと並んだ。
「……島下乱太郎先生のサイン会か」
独りごちた彼の顔には、憧憬の念が浮かんでいた。
日本漫画界の巨匠であり、悠馬が最も尊敬する漫画家。彼が描く作品の筆致や、キャラクターの生命力は、悠馬にとって常に目標であり、彼の漫画家としての原点でもあった。
列はゆっくりと進み、やがて悠馬の番が回ってきた。
目の前には、白髪混じりだが若々しい笑顔を浮かべた島下乱太郎先生が座っている。悠馬は緊張で喉がカラカラになった。
「ようこそ!会えて嬉しいよ」
島下先生は温かい笑顔で悠馬に話し掛け、右手を差し出した。
悠馬は恐る恐るその手を握る。その手は、想像以上に分厚く、そして力強かった。
まるで、何十年もの間、数えきれないほどの物語と命を紙の上に生み出してきた、歴史そのものが凝縮されているかのようだ。
「……すごい手だ……」
悠馬は圧倒され、思わず呟いた。島下先生はにこやかに頷き、ペンを取ってサイン色紙にサラサラとペンを走らせる。
「名前は?」
悠馬は、緊張しながらもはっきりと答えた。
「村上悠馬です!」
「村上悠馬っと、これでいいかな?」
そう言いながら、島下先生はサインを終えた色紙を悠馬に差し出した。その筆致は、やはり神業のようだった。
「ありがとうございます!」
悠馬は深々と頭を下げ、憧れのサイン色紙を両手で受け取った。
彼の心は、尊敬する巨匠との対面に打ち震え、感動で胸がいっぱいだった。
悠馬は、まだ何事か話したい衝動に駆られながらも、次に並ぶ人々の視線を感じ、深く一礼してその場を後にした。
だが、悠馬が去ったその瞬間、島下先生の表情は、一瞬で凍り付いた。
サイン色紙に書かれた「村上悠馬」という名。そして、その字の筆跡。
それは、数ヶ月前、秀栄社の編集部で、彼がその圧倒的な「素質」を見抜き、「愚行だ!」とまで断言した、あの高校生の原稿に書かれていた名前、そのものだった。
忘れかけていた、しかし胸に強く刻み込まれていたその記憶が、雷光のように脳裏を駆け巡る。
島下先生の眼光が、まるで炎を宿したかのように鋭く光り、去っていく悠馬の背中を、食い入るように見つめた。
「悠馬……!」
先生の唇が、ごく小さくその名を紡ぎかけた、その時だった。
「島下先生、そろそろ次のイベントへお願いします!」
イベント関係者が慌ただしく近づき、今後のスケジュールを告げる。
周囲の喧騒と、次を待つ行列の視線が、島下先生を現実に引き戻した。彼は、悠馬の背中が人混みに紛れて小さくなっていくのを、ただ見送るしかなかった。微かな焦燥と、何か極めて大切なものを取りこぼしたような感覚が、巨匠の胸に静かに広がる。
このすれ違いが、後に彼らの運命を大きく変えることになるだろうか。
悠馬は、そのサイン会での出来事が、自分の人生にどれほどの意味を持つのか、まだ知る由もなかった――。
場所は変わり、河村沙織が営む接骨院。
午後の穏やかな光が差し込む院内には、消毒液の微かな匂いと、静かな時間が流れていた。
施術台に横たわるのは、日本の漫画界を牽引する巨匠、島下乱太郎その人だった。沙織は、いつものように落ち着いた手つきで彼の肩周りの筋肉を丁寧にほぐしていく。
「最近、お疲れのようですね、先生」
沙織は、さりげない口調で問いかけた。
彼女の手から伝わる温かさと、的確な施術に、島下先生は心地よさそうに目を閉じている。
「そうなんだよね、沙織さん。まさに新連載『ヴァンパイア滾り』と、既存の『青い炎』の同時連載だから、さすがに忙しくてね」
島下先生の声には、どこか疲労の色が滲んでいる。
「先生の新連載、読みましたよ。『ヴァンパイア滾り』、凄く刺激的で面白かったです」
沙織は、施術を続けながらも、率直な感想を伝えた。その言葉に、島下先生はゆっくりと目を開き、少し嬉しそうな表情を浮かべる。
「そうか、ありがとう。あの物語はね……」
島下先生は、新連載に込めた想いや、キャラクターたちの知られざる設定、そして構想段階での裏話などを、情熱的に語り始めた。その目は、疲労を忘れ、漫画への純粋な愛情で輝いていた。
その様子を、施術台の傍らに丸くなって寝ていたノラが、大きなあくびをしながら眺めていた。猫特有のゆったりとした動きで体を伸ばし、再び丸くなる。
島下先生の熱弁も、ノラにとっては心地よい子守唄に過ぎないようだった。
その頃、悠馬は秋葉原で購入してきたばかりのペンタブレットを、彼のデスクトップPCに接続していた。そのデスクトップPCは、大学合格の祝いとして、システムエンジニアの父親が息子に買い与えたものだった。
「これからの時代、パソコンぐらい扱えなくては駄目だ」というのが彼の持論だったからだ。
デジタル作画ソフトを立ち上げ、ペンタブレットを握り、意気揚々と絵を描き始めようとする悠馬。しかし、すぐにその表情が曇った。
「なんだこれ? アナログだったらもっとうまく描けるのにな」
紙とペンに慣れ親しんだ手には、ツルツルとしたペンタブレットの操作感が馴染まない。
ペン先の位置と描かれる線のズレ、筆圧の調整、そして何より、紙に描く時の直感的な感覚との違いに、悠馬は少し愚痴をこぼした。思い通りに線が引けず、すぐに作画作業を中断してしまう。
休憩がてら、悠馬はネットサーフィンを始めた。
尊敬する島下先生のYouTubeチャンネル『巨匠・島下乱太郎の絶叫大学!』を見つけると、思わずクリックする。
そこに映し出される映像は、まともな漫画に関する内容のはずなのに、島下先生が語り始めると、まるでバラエティ番組のようなテンションになる。
「あはは!」
思わず、悠馬は声を出して笑ってしまった。
「島下先生、面白いな。漫画と本人、どっちが面白いんだろう」
そう呟きながら、彼は画面の中の巨匠の意外な一面を楽しんだ。
さらにネットサーフィンを続けていると、X(旧Twitter)に辿り着いた。
タイムラインをスクロールしていくと、ふと、彼の指が止まる。そこには、息をのむほどに美しいデジタルイラストが投稿されていた。鮮やかな色彩、繊細な光の表現、そしてまるで生きているかのようなキャラクターたち。
「すごいな…これ」
悠馬は圧倒され、モニターに顔を近づける。
「デジタル作画を極めれば、ここまで表現が可能なのか……」
彼は、自身の知らない表現の世界が広がっていることに、静かな興奮を覚えた。思わず悠馬は、その投稿にいいね!をして、そのままそのクリエイターのフォロワーになった。
この時、悠馬はまだ知る由もなかった。彼が何の気なしに押した「フォロー」のボタンが、まるで運命の歯車を回すかのように、これからの彼の人生に大きな影響を与えることになる始まりだということを――。
第三話 完
第四話に続く
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