第二話 冬の始まり

 重い疲労感と共に自宅のベッドに倒れ込んでから、どれくらいの時間が経っただろう。体は休息を求めていたが、悠馬の心は常にざわついていた。


 あの東京での持ち込みの日々が、まるで遠い夢のように思える――。


 枕元に置いたスマートフォンの画面が暗いままなのを確認し、何度目かのため息を吐く。通知音は鳴らない。郵便受けに目をやっても、見慣れた広告のチラシばかりで、秀栄社からの、あるいは別の出版社からの封筒など、どこにも見当たらない。


 一日、また一日と過ぎるごとに、胸の奥で燻っていた微かな期待の炎が、ゆっくりと消えかけていくのを感じた。――結局、どの出版社からも、連絡はなかった。


 翌日の学校。昼休み、教室のざわめきが耳に届くが、悠馬の心はそこにない。ぼんやりと窓の外を眺めていると、背後から親友のケンの声が聞こえた。


「おい、悠馬!この前の持ち込み、どうだったんだよ?」


 ケンが、隣に座っていた他の友人たちも促すように悠馬に視線を向ける。期待に満ちた彼らの瞳に、悠馬は思わず顔を伏せた。返事が出ない。喉が張り付いたように、言葉が詰まる。沈黙に、友人の間で不安な空気が流れるのがわかった。


「……ま、まあ、そんな簡単に行くわけねーよな!」


 ケンが気まずそうに声を上げ、悠馬の肩を軽く叩いた。その言葉が、かえって悠馬の心を深く抉る。無理に口角を上げ、笑顔を作ろうとするが、心の中は失望で打ちひしがれていた。


「……うん、ごめん。何もなくて」


 絞り出した声は、ひどく掠れていた。友人の期待に応えられなかったことへの申し訳なさと、現実の厳しさに、悠馬はひたすら打ちのめされていた。


 その日以来、悠馬のペンはぴたりと止まってしまった。


 机の上に広げられた原稿用紙は、白いまま彼を嘲笑う。何度ペンを握ろうとしても、指先は震え、アイデアは枯渇し、まるで心を閉ざされたかのように何も描けない。あの自信に満ちていた日々が、嘘のように遠い。


 漫画を描くことが、こんなにも苦しいものだとは知らなかった。描けば描くほど、自分の未熟さ、才能のなさが突きつけられる気がした。


 そんな状態の悠馬に、周囲の状況は容赦なくのしかかる。


 クラスメイトたちは次々と就職先の内定を報告し、大学の推薦入学を決めていく。廊下や教室で、彼らの明るい声が飛び交うたびに、悠馬の心には鉛のような焦りが沈んでいった。「おめでとう」「すごいな」と口では言いながらも、悠馬の焦燥は募るばかりだった。


 自分だけが、このまま立ち止まったままでいいのか? 夢を追いかける資格があるのか?


 ある日、放課後。担任の坂田(さかた)先生が、悠馬を呼び止めた。


「悠馬、少し話がある。進路指導室に来なさい。」


 進路指導室の椅子に座ると、坂田先生は腕を組み、いつになく真剣な表情で悠馬を見つめた。


「お前も高校三年生だ。そろそろ本気で自分の将来と向き合わなければならない時期だぞ。最近、授業中の集中力も散漫になっていると聞く。このままでは、第三志望の大学受験も危うい。」


 先生の言葉が、悠馬の耳に重く響く。頭では分かっている。分かっているのに、どうすることもできない。


「……先生、実は俺……」


 悠馬は、絞り出すような声で、誰にも打ち明けられずにいた心の奥底の秘密を告白した。


「俺……漫画家になりたいんです!」


 坂田先生の眉が、一瞬、驚いたように上がる。だが、すぐにその表情は、どこか懐かしむような、柔らかなものへと変わった。そして、フッと口元を緩め、からかうでもなく、かといって同情でもない、どこか明るい声で話し始めた。


「そうか。お前もか。いや、驚いたな……まさか、お前からそんな言葉を聞くとはな。」


 坂田先生は、椅子にもたれかかり、遠い目をする。


「実はな、悠馬。何を隠そう、先生も若い頃は漫画家を目指してたんだよ。学生時代は、それこそ寝る間も惜しんで描きまくったもんだ。夢中だったな、あの頃は。」


「だけどな……結局、夢は叶わなかった。プロの壁は厚かったんだよ。才能、努力、運……色んなものが足りなくてね。それで、教職の道に舵を切って、今に至るってわけだ。」


 先生はそう言って、再び悠馬に視線を戻す。その瞳には、諦めた夢への未練ではなく、むしろ清々しささえ感じられた。


「だからお前が漫画家になりたいって気持ち、少しは分かるつもりだ。」


「だがな、悠馬。先生の経験から言わせてもらうと、漫画家になるってのは、そんなに甘い道じゃない。 本当に、とてつもなく難しいことなんだ。」


 坂田先生の言葉は、率直で、しかしどこか優しさを帯びていた。悠馬は、先生の意外な告白に驚きながらも、その言葉の重みに、自身の不安がさらに募るのを感じた。


(そんなに、難しいことなのか……?)


 坂田先生との面談の後も、悠馬の心は晴れなかった。先生の言葉は、まるで彼の不安を裏付けるかのように、重くのしかかる。「そんなに、難しいことなのか……」という疑念は、一度ペンが止まってしまった彼の心をさらに蝕んでいく。


 机の上の原稿用紙は、相変わらず白いままだ。描こうとすればするほど、東京での挫折や、自分の才能のなさが頭をよぎり、手が震えた。


 季節は巡り、夏が終わり、秋の冷たい風が吹き始める。


 学校の空気は、受験ムードに包まれ、同級生たちの進路は次々と決定していく。志望校合格の知らせに湧くクラスメイトたち、推薦で早々に未来を決める友人たち。


 彼らの明るい声が、悠馬の耳には重く響いた。自分だけが、何も進んでいない。焦りだけが募り、苛立ちが心を支配する。


 そして、冬が訪れる――。


 一月。世間は賑やかな正月ムードに包まれていたが、悠馬の心は重かった。初詣に行っても、絵馬に書いたのは「漫画家になれますように」という、切なる、しかしどこか諦めにも似た願いだった。


 親戚の集まりでも、皆が口にするのは「悠馬くんは、どこの大学に行くんだ?」「将来は何になるの?」という、耳に痛い質問ばかり。無理に笑顔を作る悠馬の心は、次第にすり減っていった。


 そんな日々が続き、一月の終わり。家の中の空気は、日増しに重くなっていた――。


 特に父親との間には、目に見えない壁ができていた。


 悠馬は、漫画のことには触れられず、父は悠馬の将来を案じては、現実的な話ばかりを突きつける。その夜も、食卓での会話が、やがて口論へと発展した。


「いつまでそんな腑抜けた顔をしているつもりだ!」


「受験まであとわずかだぞ!いい加減、現実を見ろ!」父の低い声が響く。


 悠馬は箸を置いた。努力しても報われなかった悔しさ、描けない苦しさ、そして誰にも理解されない孤独が、彼の内側で爆発寸前だった。


「現実ってなんだよ!父さんは俺の気持ち、少しも分かってない!」


「気持ちだと?そんなくだらん気持ちで飯が食えるか!」


「お前はいつまで夢ばかり見て、親に迷惑をかけるつもりだ!」


「あの時、漫画なんか諦めておけば、こんなことにはならなかったんだ!」


 父の言葉が、悠馬の逆鱗に触れた。あの燃やされた原稿の記憶、冷徹な一喝。全てがフラッシュバックする。


「くだらんって言うな!俺は……俺は本気なんだ!」


 悠馬が声を荒げると、父は立ち上がり、テーブルに置かれた湯飲みを強く掴んだ。そして、カッと目を見開くと、悠馬の頬に鋭い衝撃が走った。


パァン!


 乾いた音が、静まり返った居間に響き渡る。頬が熱く、視界が歪んだ。


「親に向かって、なんて口の利き方をするんだ!お前は一体、何をやってるんだ!」


 怒鳴り声が耳鳴りのように響く。母が慌てて間に入ろうとするが、悠馬の怒りは限界を超えていた。


「もういい!こんな家、俺には息苦しいんだ!出ていってやる!」


 悠馬は叫び、椅子を蹴倒すように立ち上がった。


 呆然とする両親を振り切り、自分の部屋へ駆け込む。荒々しくドアを閉めると、背中を凭せかけ、そのままずるずると床に座り込んだ。


 込み上げてくる熱い涙が、頬を伝う。


「……くそっ……!」


 彼は、涙を拭うことなく、クローゼットから引っ張り出した古いリュックサックに、手当たり次第に荷物を詰め込み始めた。着替え、僅かな現金、そして、一度は諦めかけたが、まだ捨てきれない漫画の道具。


 階下からは、母の心配そうな声と、父の「放っておけ!どうせすぐに帰ってくる」という、冷徹な声が聞こえてくる。


 悠馬は、一度も振り返ることなく、玄関のドアを開けた。


 外は、真冬の冷たい風が吹き荒れている。雪がちらつき始めた夜空の下、彼は小さなリュックサックを背負い、家を飛び出した。


 慣れない重さに肩を軋ませながら、悠馬は凍えるような寒さの中、愛用の自転車に跨った。ペダルを漕ぎ出すたび、乾いた雪がタイヤの下でシャー、と音を立てる。


 目的地は、遥か彼方の東京。何のあてもない。


 ただ、この息苦しい家から逃れたい一心と、何としてでも漫画家になってやるという、半ばヤケのような、しかし確かな執念だけが彼を突き動かしていた。


 頬を打つ冷たい風が、涙で濡れた目からさらに熱を奪っていく。


 悠馬は、ただひたすらに前へ、前へとペダルを漕ぎ続けた。街灯のまばらな道を、凍えながらひた走る。全身の震えは止まらないが、心の中で燃え盛る怒りと、未来への漠然とした希望が、冷え切った体を無理やり動かしていた。


 夜が明け、どんよりとした曇り空が広がっていた。昨日からの雪が、アスファルトの端にうっすらと残っている。疲れと空腹で朦朧としながらも、悠馬は国道を走り続けていた。


 だが、その時だった。路面凍結しかけた坂道に差し掛かった瞬間、前輪が不意に滑る。


ガシャアァン!


 鋭い金属音が響き渡り、悠馬は自転車もろとも横転した。肘をアスファルトに強く打ちつけ、激痛が走る。


 なんとか体を起こし、自転車に目をやると、チェーンは無残にも外れ、さらにタイヤからは「プシュー……」と、間の抜けた音が聞こえてくる。パンクだ。


 悠馬は、その場でへたり込んだ。


 凍える体、痛む肘、そして無残な自転車。この旅の無謀さが、現実となって突きつけられる。しかし、諦めるわけにはいかない。彼は固く拳を握りしめ、壊れた自転車をゆっくりと起こした。


 そして、躊躇することなく、道路脇の雑木林の中へ、自転車を捨て去った。もう、振り返るまい。


 ここから先は、己の足だけが頼りだ。リュックサックを背負い直し、悠馬は再び歩き出した。最初は、まだ家を飛び出した時の勢いが残っていた。


 東京へ行く、漫画家になる――その言葉が、彼を奮い立たせる呪文のように響いた。しかし、歩けども歩けども、景色は変わらない。


 雪が雨に変わり、冷たい雨粒が容赦なく降り注ぐ。


 体力の消耗は、想像をはるかに超えていた。足の裏にはマメができ、靴は泥まみれだ。空腹と疲労で意識が遠のき、何度か道の真ん中で立ち止まりそうになる。


 ――しかし、それでも悠馬は歩き続けた。東京に行けば何とかなる、と自分に言い聞かせながら。


 日も完全に暮れ、周囲は闇に包まれた。冷たい雨が、しとしとと音を立てて降り続いている。人気のない山道で、悠馬は力なく立ち尽くした。遠くに、バス停の小さな屋根が見える。彼は最後の力を振り絞って、その無人のバス停へと辿り着いた。


 古びたベンチに座り込み、リュックサックを抱え込むようにして、ただ雨音を聞いていた。全身が冷え切り、凍え死にそうなほど寒い。孤独と絶望が、じわりと胸に広がる。


 その時だった。


 暗闇の奥から、微かな鳴き声が聞こえた。悠馬が顔を上げると、雨に濡れた黒い影が、ゆっくりとバス停の中に入ってくる。


 それは、一匹の小柄な猫だった。


 びしょ濡れになった毛並みは細く、見るからにやせ細っている。その猫は、悠馬を警戒するでもなく、ただ静かに彼の足元に擦り寄ってきた。


「お前は良いよな、気楽で。」


 悠馬は乾いた声で呟いた。未来への不安も、過去の挫折も、親との確執も、この猫には関係ない。ただ、本能のままに生きているように見えた。


 猫は、悠馬の足元でゴロニャンと喉を鳴らす。


「お腹空いてるのか?」


 悠馬はリュックサックをゆっくりと下ろし、残り少ない非常食の中から、小さな魚肉ソーセージを取り出した。包装を剥がし、猫の前に差し出すと、躊躇なくそれに食らいついた。ひたすらに一心不乱に食べる姿は、見ていて痛々しいほどだった。その様子を見ていると、悠馬の心にわずかな温かさが灯る。


 猫はあっという間に魚肉ソーセージを平らげると、満足したように再び悠馬の足元に身体を摺り寄せてきた。まるで「もっとくれ」とでも言いたげに、悠馬のズボンに顔を擦りつける。


「お前も、誰かに捨てられたのか?」


 悠馬は問いかけるが、猫は言葉を返さない。


 ただ、彼の足元でゴロゴロと喉を鳴らし、温かい体温を伝えてくるだけだった。孤独な旅路の果てに、自分と同じように彷徨う小さな命。その存在が、悠馬の心にじんわりと染み渡る。


「じゃあ……今日からお前は、ノラだな。」


 悠馬がそっと手を伸ばすと、ノラは逃げることなく、むしろ歓迎するようにその手に頭を預けた。柔らかい毛並みと、小さな命の温かさが、悠馬の指先に伝わる。


 冷え切っていた彼の心に、温かい雫が落ちるような感覚だった。


――その時だった。


 張り詰めていた心が、プツンと音を立てて切れた。自分を理解してくれる友人の期待も、家族との激しい衝突も、自転車を捨ててまで歩き続けた無謀な旅も、全てが走馬灯のように脳裏を駆け巡る。


 そして、そんな彼の絶望の淵に、ただひたすらに寄り添ってくれる小さなノラの温かさ。



「うっ……うあああああ……!」



 悠馬はたまらず、ノラを抱きしめた。小さな身体が、彼の腕の中で微かに震える。そして、堰を切ったように、熱い涙が頬を伝い落ちた。


 それは、これまでの苦しみと絶望、そしてこの小さな命との出会いによる、深い安堵と感謝の涙だった。真冬の冷たい雨が降りしきる山道のバス停で、悠馬とノラは、互いの孤独を癒し合うように、強く抱きしめ合っていた。



 その頃、悠馬の自宅では、時計の針が真夜中を回ろうとしていた。



 リビングの明かりは煌々と灯され、母親は食卓に置かれた悠馬の空の茶碗を、何度も不安げに見つめていた。父親は新聞を読んでいたが、その視線は活字の上を滑るばかりで、全く頭に入っていないようだった。


「悠馬、まだ戻らないわね……」


 母親が、絞り出すような声で呟いた。その言葉に、父親は新聞から顔を上げ、苛立たしげにテーブルを叩いた。


「放っておけと言ったはずだ!どうせ腹でも減れば、すぐに帰ってくるだろう!」


「そんなこと言って……もう何時間経ったと思ってるの!」


「こんな真冬の夜に、あの子がどこでどうしてるか、あなたは本当に心配じゃないの!?」


 母親の声が震える。これまで夫の言うことに従ってきた彼女が、今、必死に息子を案じているのが見て取れた。父親は、顔を背けるように視線を窓の外に向けたが、その眉間には深い皺が刻まれている。


「お前が甘やかすからだ!」


「いい加減、現実から目を背けて、くだらん夢ばかり追いかけるような息子になったのは、お前がいつもチヤホヤするからだ!」


 父の言葉は、まるで責任転嫁のように響いた。しかし、母親は引かなかった。


「私だけのせいだと言うの!?」


「あの子がどれだけ漫画に打ち込んでいたか、あなたは一度でも真剣に見てあげたことがあったの!?」


「あんなに頑張っている悠馬を、もう少しだけ、認めてあげてもよかったんじゃないの!」


 母親の反論は、静かだが、確かな怒りと悲しみを帯びていた。


 リビングに重い沈黙が降りる。父親は何も言い返せず、ただ黙って外を睨みつけていた。だが、彼の握りしめた拳は微かに震え、その目に宿る光は、決して冷静なものではなかった。


 愛する息子が、この真冬の夜、どこを彷徨っているのか――彼もまた、内心では不安でたまらなかった。しかし、その顔を家族に見せることは、彼にとって許されないことだった。


 やがて、重い沈黙を破ったのは、母親だった。


「私……警察に捜索願いを出してくるわ。」


 父親は一瞬、顔を上げたが、何も言わず、ただ黙って新聞をテーブルに置いた。その無言の了解が、彼の内心の焦りを物語っていた。


 母親は、震える手で携帯電話を握りしめ、冷え切ったリビングを後にした。


 ――真冬の冷たい雨が降りしきる山道のバス停で、悠馬とノラは、互いの孤独を癒し合うように、強く抱きしめ合っていた。


 どれほどの時間がそうして過ぎたのか。


 遠くから、何かを切り裂くような音が近づいてくる。悠馬はハッと顔を上げた。雨と雪の混じった視界の先に、青と赤の光が点滅しているのが見えた。


「――パトカー!」


 反射的に、悠馬はノラを抱きかかえ、バス停の背後にある薄暗い雑木林の奥へと身を隠した。鼓動が激しく高鳴る。


 家族が捜索願いを出したのだろうか。捕まれば、この旅はそこで終わってしまう。


 パトカーは、悠馬が隠れた場所のすぐ近くの道路を、ゆっくりとライトを回しながら走り去っていった。


 その間に、悠馬は息を潜め、ノラもまた、彼にしがみつくようにして、じっと身を潜めていた。サイレンの音が遠ざかり、再び静寂が戻る。


 悠馬は、まだ震える体でバス停に戻ると、冷たいベンチの隅でノラと身体を寄せ合った。


 小さなノラの温かさが、彼の心に微かな安らぎを与える。疲労困憊の体は、限界を超えていた。冷たい雨音だけが子守歌のように響く中、悠馬とノラは、互いの体温を分け合うようにして、深い眠りに落ちていった――。



 翌朝、夜明けと共に、悠馬は目を覚ました。



 体は鉛のように重く、全身の節々が痛む。ノラは、まだ悠馬の胸元で気持ちよさそうに眠っていた。そっと抱き上げ、毛布のように固くなっていたリュックサックを背負い直す。


「さあ、行くぞ、ノラ。」


 悠馬が立ち上がると、ノラは小さく「ニャア」と鳴き、彼の足元を擦った。


 そして、まるで当然のように、悠馬のすぐ後ろを追うように歩き出す。真冬の冷たい空気が肺に染み渡る。まだ東京は遥か遠い。だが、悠馬の隣には、もう一人じゃない。


 彼の小さな「相棒」がいた。


 二人は、白い息を吐きながら、再び東京を目指して歩き始めた。


 しかし、道中は想像を絶するものだった。降り続く雪や雨に何度も体力を奪われ、凍えるような寒さが容赦なく全身を蝕んだ。


 凍結した道に足を取られては転び、泥まみれになりながらも、悠馬は歯を食いしばって立ち上がった。


 空腹は常に彼を襲い、リュックサックの中の僅かな食料は、あっという間に底をついた。


 ノラもまた、寒さに震えながら、悠馬の足元に必死でしがみついてくる。時折、通り過ぎる車のヘッドライトが彼らの姿を照らし出すが、誰もその無謀な旅人に気づくことはなかった。



 数日が経っただろうか。悠馬の体力は限界を超えていた――。



 足の裏には大きなマメができ、歩くたびに激痛が走る。視界は霞み、意識が朦朧としていた。それでも、東京へ、漫画家へ、という唯一の目標だけが彼を突き動かす。


 ようやく、ビルの明かりが遠くに見え始め、都会の喧騒が微かに耳に届くようになった頃だった。ここが東京なのか、と悠馬はかろうじて理解した。



 しかし、その一歩が、もう踏み出せなかった。



 ガクリ、と膝が折れる。悠馬は、そのままアスファルトの冷たい地面に、ゆっくりと崩れ落ちた。リュックサックが背中から滑り落ち、彼の体はぴくりとも動かない。


 ノラが、心配そうに悠馬の顔を覗き込み、「ニャア、ニャア」と悲痛な声で鳴き続ける。


 小さな体で悠馬の頬を擦り、どうにか彼を起こそうとするが、悠馬の意識は遠のき、もう何も感じられない。


 暗闇の中、ノラの鳴き声だけが、無情な夜の空に響き渡っていた。


 その時だった。


 カツ、カツ、と、誰かの足音が近づいてくる。ノラは、その音に気づき、警戒するように一瞬鳴き止んだ。足音は、倒れている悠馬のそばで止まる。


「えっ……!?」


 女性の驚いたような声が聞こえた。悠馬は、微かに意識を保っていたものの、目を開ける力も、返事をする声も出ない。


 彼女は、悠馬の傍らにしゃがみ込むと、戸惑いながらもその冷たい頬にそっと触れた。


「もしもし!大丈夫ですか!?」


 何度か呼びかける声がするが、悠馬からは何の反応もない。


 女性は、躊躇うことなく悠馬の腕を自分の首に回すと、その細身からは想像もできない力で、彼の体をゆっくりと引き起こした。


「しっかりしてください!すぐに連れて行ってあげるから……!」


 彼女は、倒れた悠馬を支えながら、ゆっくりと歩き出した。傍らには、心配そうに悠馬と彼女を見上げるノラが、ちょこちょこと後をついていく。


 夜の東京の片隅で、絶望の淵にあった悠馬は、まだ見ぬ彼女の温かい腕に抱えられ、新たな未来へと導かれていくのだった――。




第二話 完

第三話に続く

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