第五話 記憶の覚醒、生まれた歪み~美菜(母)視点~

 走って、走って――どれくらい走ったのだろう。 気がついたら、月明かりの下。私は一人ぼっちでそこにいた。


 閑静な住宅街にある公園のブランコに、ぽつんと腰掛ける。 ゆるく漕いでみて、ふと気づく。――裸足だ。


(……なんで、靴、履いてないんだろう。)


 ぼんやりとしながら、思い出す。 幸せだった頃の記憶。 元夫のたすくと、生まれたばかりのあの子がいて……毎日が、幸せだった――。


 ――生まれたときから静かな子で…そう…あの子は「声」を持たずに生まれてきた。いや、正しくは、声が“外”に出なかったというのが正しいのかもしれない。


 きっと…心には言葉があった。

 だって、そこには確かに笑顔があったのだから…。


 多くの親にとって子供の成長が楽しみなのは言うまでもない。

 私や夫の輔にとっても、最初はそうだった……。


 すれ違いが始まったのは――そう、あの子が幼稚園に入るより少し前のこと。

  私が二十三歳になったばかりの頃だった。


 ……けれど、もっと前の話をしなければならない。


 私が輔と出会ったのは、十九歳のときだった。

 子供の頃に施設へ預けられ、私はその中で育った。

 中学に上がる頃には、施設の先生からセクハラを受けるようになり――


 ――私は、施設を飛び出した。


 そして、十八歳になると私はスナックで働き始めた。

 父の記憶はない。 おそらく母は、経済的な理由で私を手放すしかなかったのだろう。

 ……わかっている。 女手一つで子供を育てるのは、どれだけ大変なことか。


 スナックで働き始めたのは、お金が欲しかったから。 生活するため――というのもあったけれど、私には夢があった。


 お金がなくて私を迎えに来れなかったであろう“母”を、 いつか――私が、迎えに行く。 その思いだけを支えに、私は必死で働いた。


 輔――私の元夫である四ノ宮輔とは、働いていたスナックで知り合った。


 高校を卒業した後、地元で“名士”と呼ばれる父親の会社に勤めていた彼は、店の常連だった。


 人を笑わせるのが得意で、口が上手くて、金払いもいい。 私には到底食べられないような高級寿司を出前で頼んでくれたり、シャンパンを入れてくれたり……とにかく、優しかった。


 私たちはすぐに意気投合し、店の外でも会うようになって……三度目のデートで、私は“女”になった。出会って半年、いわゆる“できちゃった婚”で、私たちは入籍をした。


 そしてその半年後。無事に子供が生まれた。

 輔と私の子。 泥の中でも凛と咲く、強くて綺麗な花。

 私はその子に――「蓮」と名付けた。


 施設育ちの私が、こうして誰かに愛され、妻として花を咲かせたように。 この子にも、たとえ辛いことがあったとしても、ちゃんと、自分の花を咲かせてほしい。


 ……そんな願いを込めて、私はこの名前を選んだ。


 初めて寝返りを打った日。

  ハイハイを始めた日

  掴まり立ちをした日。


 ……そのひとつひとつが、私たち家族にとって“記念日”だった。 


 初めのうちは、泣かない我が子を「静かで手のかからない子」と笑っていた。 夜泣きでボロボロになっているママ友の顔を見るたびに、


(うちの蓮はママを困らせない、いい子だもんね)


 と、心の中でこっそり自慢していた。 それどころか、少し優越感すら覚えていた。

 けれど……


 ―― 時間が経つにつれて、その優越感は、じわじわと不安に変わっていった。


 ***


「なんで蓮は喋らないのかな~?」


 布団に寝転ぶ蓮のほっぺを、私は指でつんつんとつつく。 蓮はもう三歳。公園にいる同い年くらいの子たちは、正直うるさいくらいお喋りだ。


「あー? うん、なんでかなぁ~」


 輔は隣で寝転がりながら、スマホゲームに夢中で、ろくにこっちも見ずに答える。


「ねぇ……なんかの障害とかだったら、どうしよう……。ねぇ、聞いてる?」


 ゲームなんてしてないで、ちゃんと聞いてほしい。 私は不安を抑えきれず、輔の肩を揺さぶった。


「えっ!? あ、おいバカ、ちょっ……! あ~~~……ったく、ありえねぇ……。もうちょっとでクリアできたのに……」

「大事な話してるんだよ? ちゃんと聞いてよ」

「はいはい、それで? なに?」


 輔は面倒くさそうに起き上がって、頭をかいた。


「蓮が……なんで喋らないのかなって。他の子はもう、みんな喋ってるのに」

「あー……育て方とか?」


 その一言に、私の中で何かが、カチンと音を立てた。


「……何それ。私が悪いって言いたいの?」


 声が、自分でも驚くくらい低くなった。


「うっそブー! 冗談、冗談! 本気にすんなって」


 鼻に指をあてて豚の真似。 昔は、そんなふうにおどける輔が面白くて、よく笑ってた。 今は……なぜか、すごく癪に障る。

 私が黙って下を見ていると、ようやく、まともな声が返ってきた。


「まあ……気になるなら、病院連れてって診てもらえば?」


 そう。そうなんだよ。 病院に行けば、何かわかるかもしれない。

 ……でも。 今まで連れて行かなかったのは――怖かったから。


「……もし、もしもだよ? 何かの障害だったら、どうしよう……」


 心の奥底で、ずっと否定していた疑い。 障がい者とかだったら、私になんか育てられるのだろうか…。


 …それに義母はいったい、なんていうだろう…。


『どこの馬の骨ともわからない子を嫁にするですって!? 許しませんよ!』

『妊娠ですって!? まー!なんて破廉恥な!! これだから親のいない子は!!』


 結婚の了承を得るために挨拶に行ったとき、浴びせられた、あの言葉たち。 無理やり抑えていたはずの記憶が、じわじわと胸の奥から滲み出す。


「いやいやいや、障がい者とかマジありえねーだろ。勘弁しろよ」


 その瞬間、自分の耳を疑った。


 ……でも……早とちりかもしれない。 きっと、心配する私に対して「自分の息子をそんな風に思うな」って意味で言ったんだよ…ね?


「ねぇ…ありえねーって……なに? 勘弁しろって、どういうこと?」


 夫の真意がどこにあるのかわからず、私は尋ねてみた。


「いや、だってそうだろ。障害持ちとかムリムリ」


 聞き間違いじゃない。思い違いでもなかった……。 夫は、蓮に対して言ったのだ。


「ムリムリって……もしそうだったら、どうすんのよ!」


 私は叫んでいた。だって、私だって不安なんだよ……! 一緒に頑張ろうって、言ってくれるんじゃないの……!?


「あー……施設じゃね? 障がい持ちなんて、育てらんねーだろ」


 ――ドクンッ!


 心臓が飛び跳ねた。 周りの音が一瞬で遮断され、ドクドクと血の音だけが響く。


 ――施設。


 その単語が、私の中の“何か”に触れた。


 施設で育ちながらも自分は“親に愛されていた”と、信じていた。 ……いや、信じたかった。

 “どうしようもない事情で、仕方なく手放されたんだ”―― そう思い込むことで心のバランスと保っていた……。


 でも……。


(こんなに簡単に、子どもを施設に預けるなんて、考えられるんだ……)


 ――強烈な閃光が、視界の中心を撃ち抜いた。

 ……そして、蘇る。 封じ込めていたはずの、遠い、遠い、閉じ込めたはずの記憶。


 ヒステリックに叫ぶ女の声。


『産まなきゃよかった! お前さえいなければ……! この疫病神!!』


 伸びてくる鬼のような手。 自分の首にかけられようとしていた、あの手……。


(……おかあ……さん……)


 世界がぐらりと揺れた。

 足元が崩れ落ちる感覚。

 眩暈と吐き気に襲われ……


 ――その後のことは、よく覚えていなかった。


 ふと気が付くと、部屋はめちゃくちゃだった。

 割れたコップや皿、散乱した服や本、破れた襖。

 台風が通り過ぎたようなその部屋で、輔は顔を腫らし、鼻と口から血を流しながら、ただただ謝っていた。



 翌日、私は蓮を病院へ連れて行った。

 声帯にも、知能にも、特に異常は見られなかった。

 喋れないこと以外、何も問題のない――普通の子だと言われた。


 その日から、輔の口から「施設」という言葉が出ることは二度となかった。


 でも――その一件で、生まれてしまった歪みは確かにあって…私と輔の関係を――静かに、でも確実に――壊し始めていた。


 そして、その歪みは――あの子をも飲みこんでいこうとしてた――


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