世紀末のブルース、あるいは心の空白

平成という時代は、奇妙な静けさと、そして、底なしの不安に満ちていた。バブルという熱病が去った後、この国には、どこか醒めた、諦めにも似た空気が漂っていた。まるで、祭りの後の、がらんとした広場のように。


1990年代。世紀末と呼ばれたこの十年は、特に、その終わりゆく時代の、危うい美しさと、脆さを、象徴するかのようだった。

1995年1月17日、阪神・淡路大震災。高速道路が倒れ、街が燃え、数千の命が、一瞬にして奪われる。近代化の象徴であったはずの都市が、自然の力の前には、いとも容易く、瓦礫の山と化す。

そして、そのわずか二ヶ月後。帝都の地下鉄に、猛毒のサリンが撒かれた。化学兵器による、無差別テロ。実行犯は、救済を謳う、一つの新興宗教団体だった。

これらの光景を、私は、ただ、眺めていた。人間の築き上げた社会システムの、なんと脆弱なことか。そして、人の心の弱みというものが、一度、悪意に利用されれば、どれほど、恐ろしい事態を引き起こすか。


この時代の空気は、淀んでいた。

上が、詰まっているのだ。戦後の奇跡の復興を成し遂げた、成功体験に縛られた年寄りたちが、いつまでも、社会のあらゆる要職に居座り続けている。彼らの作った古いシステムは、もはや、この新しい時代に対応できず、軋みを上げていた。

バブル崩壊による、終わりの見えない不況。そして、誰もが、心のどこかで感じている、国家の、緩やかな衰退の予感。

そんな時代に、若者たちは、社会から、見捨てられていた。就職氷得期。どれほど優秀であっても、努力しても、報われない。そんな閉塞感が、彼らの心を、じわじわと蝕んでいく。

そして、そこに、ノストラダムスの大予言という、世紀末の不穏な影が、追い打ちをかける。1999年7の月、空から恐怖の大王が降ってくる。馬鹿げたオカルトだと、頭では分かっていても、その終末論は、人々の不安を煽るには、十分すぎた。


そういった、心の弱みに、新興宗教は、巧みにつけ込んだ。絶対的な教祖、分かりやすい教義、そして、仲間との一体感。拠り所を失った人々にとって、それは、抗いがたい魅力を持っていたのだろう。そして、その歪んだ信仰の果てに、あの、地下鉄サリン事件という、狂気が、待っていた。


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