皇帝の野望、あるいは時代の歯車
ブリュメール18日のクーデターで実権を握ったナポレオンは、瞬く間にその才能を発揮し、1804年、ついに国民投票を経て皇帝の座に就いた。民衆は、自らの手で殺したはずの王を、今度は、自らの手で選んだのだ。滑稽だが、それが、歴史というものだろう。
その頃には、ネヴェも二十代半ばの、したたかな女へと成長していた。
ナポレオンの軍は、強かった。彼の革新的な戦術と、国民軍の士気の高さは、ヨーロッパ大陸を席巻した。だが、その快進撃も、海の上では止められる。1805年、トラファルガーの海戦。ネルソン提督率いるイギリス海軍は、フランス・スペイン連合艦隊を完膚なきまでに叩きのめした。私は、遠くジブラルタルの丘から、その海戦の様相を眺めていた。帆船同士の戦いでありながら、統率された艦隊運動と、卓越した砲撃技術。この海戦を見て、私は、これからの世界の覇権を握るのは、陸軍力だけではない、強力な海軍力なのだと、痛感した。私は、日本の泡沫城の職人たちに、密かに、西洋式の大型艦船の設計図を送り始めた。
栄華を極めたナポレオンにも、翳りが見え始める。ロシア遠征の、大失敗。焦土作戦と、「冬将軍」の前に、六十万を誇った大陸軍(グランダルメ)は、壊滅的な打撃を受けた。雪に埋もれたロシアの荒野で、凍死していくフランス兵たちの亡骸を見ながら、私は、人の野望の、なんと脆く、儚いものであるかを、改めて思い知らされた。
そして、ワーテルローの戦い。
プロイセン軍の参戦という不運もあったが、ナポレオンは、完敗した。一個人の天才が、歴史の大きな歯車に、ついに敗れた瞬間だった。
皇帝を退位し、セントヘレナ島へと流される彼の姿を、私は、港に集まった群衆に紛れて、静かに見送っていた。そして、獄中で、ヒ素を盛られたとも噂される、その孤独な死の報を、パリで聞いた。
一つの巨大な時代が、終わった。
私は、ネヴェに別れを告げた。彼女は、今や三十一の、逞しい女になっていた。革命の動乱を生き抜き、いつしか別の貴族の男と結婚し、子供もいた。だが、私たちは、最後まで不倫関係を続けていた。私の肉体は女性であったが、彼女にとって私は、父であり、師であり、そして、この狂った世界の、唯一の変わらぬ指標のような存在だったのかもしれない。
「さようなら、ラン。あなたは、また、どこかへ行ってしまうのね」
「ああ。俺の旅は、まだ終わらない」
私たちは、もう二度と会うことはないだろう。それでも、互いの魂に刻まれた記憶は、消えることはない。
帰国すると、日本は、私が知る元禄の頃とは、また少し違う空気を纏っていた。幕府の財政は逼迫し、武士たちの暮らしも困窮している。しかし、民衆の文化は、さらに成熟し、爛熟の極みに達していた。
だが、その泰平も、長くは続かない。私は、肌で感じていた。
そして、嘉永六年、西暦1853年。
その日は、やってきた。
浦賀の沖に、四隻の、巨大な黒い船が現れた。煙突からは黒煙を吐き、外輪が、不気味な音を立てて水を掻いている。
黒船の来航。ペリー率いる、アメリカ合衆国海軍、東インド艦隊。
江戸の町は、大騒ぎになった。この世の終わりだと泣き叫ぶ者、物珍しそうに見物に出かける者、お祭り騒ぎで酒を飲む者。右往左往する幕府の役人たち。
その光景を、私は、江戸湾を見下ろす丘の上から、冷静に眺めていた。
『――ようやく、来たか』
私にとっては、日常だった。黒船のような蒸気船は、西洋の海では、もう、当たり前の光景だ。驚きも、恐怖も、何もない。ただ、ついに、この泰平の国を揺り覚ますための、目覚まし時計が鳴り響いたのだという、確信だけがあった。
それに、私の町は既に蒸気船を製造する能力を保有していたし、所有していた
これから、この国は、否応なく、世界の荒波へと漕ぎ出していくことになる。
私が千年以上をかけて見てきた、血と、革命と、そして、新しい時代の胎動。その全てが、この小さな島国に、一気に押し寄せてくるのだ。
面白い。
面白いことになりそうだ。
私は、口の端に、微かな笑みを浮かべた。私の長い、長い旅の、クライマックスは、あるいは、この故郷でこそ、見届けられるのかもしれない。
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