神童、あるいは鬼子

我が名は、橘 嵐(たちばなのらん)。

武門の誉れ高き橘家の嫡男として、私はこの世に生を受けた。


西暦八百八十二年。後の世で元慶と呼ばれる時代の話だ。帝の権威は地に堕ち、藤原氏が摂関政治によって実権を思いのままにしていた。武士の身分はまだ低く、貴族の番犬、あるいは使い捨ての駒として扱われることが多かった。


そんな時代にあって、我が父、橘景虎(かげとら)は異色の存在だった。彼は戦場で鬼神と恐れられるほどの武勇を誇りながら、常に帝への忠誠を口にし、いずれは武士がこの国の屋台骨を支える時代が来ると信じていた。その夢と期待のすべてが、嫡男である私に注がれた。


「嵐よ。武士の子は、武士として死ぬのが誉れだ。だが、ただの犬死にではならん。千の敵を屠り、万の功績を立て、帝の御前にてその名を轟かせるのだ。お前は、この橘家、いや、すべての武士の希望となれ」


父は口癖のようにそう言った。その大きな掌で、まだ幼い私の頭を、壊れ物を扱うように、それでいて力を込めて撫でながら。母、静(しず)は、そんな父の隣でいつも心配そうな顔をして微笑んでいた。彼女は京の公家の血を引く女で、夫の夢の途方もなさと、息子に宿る異様な才気の両方に、不安を感じていたのだろう。


期待に反して、と言えば語弊がある。私は父の期待を、常に、そして容易く超越した。

しかし、その心は全く別の場所にあった。


幼少期の私は、自由奔放という言葉では生ぬるいほどの、奔放そのものだった。

言うことを聞かない。教えられた型を破る。師範の太刀筋の欠陥を、五歳の童が指摘する。作法を教えられれば、その非合理性を説いて大人を黙らせる。


「なぜ、そのような面倒な手順を踏むのです? 斬る、ただそれだけのこと。要は、相手の急所を、こちらの刃が、誰よりも速く正確に貫けば良い。違うか?」


剣術の師範は私の問いに答えられず、顔を真っ赤にして退出した。

書を習えば、一度見ただけで達人のような筆跡を真似てみせ、しかしその紙の裏には、誰も見たことのない異形の獣の絵を描いて遊んでいた。


産まれつき、全てが視えすぎた。分かりすぎた。

身体能力、頭脳、五感、その全てが常人の域を遥かに逸脱していた。師範が振り下ろす木刀は、私の目にはまるでゆっくりと落ちる木の葉のように見えた。貴族たちが興じる歌会で詠まれる難解な和歌も、一度聞けばその意味から掛詞、本歌取りの構造まで一瞬で理解できた。


故に、退屈だった。

世界が、ひどく色褪せて見えた。

父が語る武士の誉れも、母が祈る神仏の慈悲も、私にとっては盤上の石の配置を覚えるのと大差ない、ただの情報でしかなかった。この世の全てが、私にとっては詰めの甘い遊戯盤のように思えたのだ。


「嵐。お前はなぜ、全力を出さん」


ある日の夕暮れ。道場で一人、木刀を振っていた私に、父が静かに問うた。私は汗ひとつかいていなかった。息も全く乱れていない。ただ、決められた素振りを、寸分の狂いもなく繰り返していただけだ。


「全力とは、何です? 父上。この程度の素振りに、全力を出す意味が?」

「意味ではない。心構えの話だ」

「心構え。意味のない行為に、心を構える必要が?」


私の返答は、あまりに冷たく、合理的すぎた。父は言葉に詰まり、その顔に深い悲しみの色を浮かべた。鬼神と恐れられた武人の貌ではなかった。ただ一人の、息子の心が理解できない父親の貌だった。


「……お前は、鬼の子かもしれんな」


ぽつりと漏れたその言葉は、父の本心だったのだろう。

私は何も答えず、ただ再び木刀を振るった。風を切る音が、ひゅう、と寂しく鳴った。


鬼の子。そうかもしれない。

だが、鬼であるには、この世はあまりに退屈で、刺激がなさすぎた。


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