人魚の肉を喰らった最強武士、女になって千年を生きる愛の物語
無常アイ情
指先に触れる、千年の孤独
グラスの中で、琥珀色の液体がゆらりと揺れる。氷がからりと音を立て、私の長い指を縁取るように水滴が伝っていく。深夜のバー。時代錯誤なジャズの音色と、紫煙の匂い。ありふれた風景。ありふれた時間。私の千年を超える歳月の中では、瞬きほどの価値もない、ありふれた夜だ。
「お姉さん、一人?」
カウンターの隣に滑り込んできた男が、安っぽい香水の匂いを振りまきながら声をかけてくる。その視線が、私の貌(かお)を、首筋を、ドレスから覗く鎖骨の窪みを、まるで舐めるように這う。欲望。賛嘆。そして、人間という生き物が、己の理解を超えた美を前にした時に見せる、微かな畏怖。私はその全てに飽いていた。
「ええ、まあ」
曖昧に微笑む。その仕草一つで、男の目の色が変わるのを私は知っている。私の貌は、そういう風にできている。私の声は、肉体は、存在そのものが、人を狂わせる呪詛(じゅそ)で編まれている。男だけではない。女も、老いも若きも、私の前では等しく理性を失う。かつて、一人の帝がそうであったように。国さえ傾かせたこの貌は、私が愛した女の怨嗟そのものなのだから。
男が何かを饒舌に語り始める。自分の仕事、成功、どれほど自分が価値のある人間か。私は聞いているふりをしながら、意識をグラスの中の揺らめきに沈ませる。この液体のように、私の時間もまた、淀み、停滞している。
――エリー。
心の中で、その名を呼ぶ。八百九十四年、九月三日。あの日、あの海で君に出会わなければ。帝に仕える武士として、物の怪を討つ者として、ただの一人の男として、私は誉れ高く死んでいたのだろうか。五人の妻と二十一人の子に看取られ、安らかに。そんなありふれた幸福を、私は自ら捨てた。
君を愛してしまったから。
千年の孤独を抱えた人魚を。
そして、君の肉を食らってしまったから。
「これがエリーの味か」
あの岩礁の上で、冷たくなった君を腕に抱き、その肉を口に含んだ瞬間の戦慄を、私は今でもありありと思い出せる。禍々しく、甘美で、絶望に満ちた味。それは私のすべてを変えた。男の肉体を女へ。武士の剛力をしなやかな狂気へ。そして、有限の命を、終わりのない地獄へ。
「ねえ、聞いてる?」
男の声で現実に引き戻される。私はゆっくりと貌を上げ、彼の瞳を真正面から見つめた。
「ええ。聞いていますよ。あなたの人生の、なんと素晴らしいことか」
私の唇が紡ぐ言葉は本心からの賞賛のように響き、しかしその瞳の奥には、千年の時を生きる化け物の、底なしの虚無が広がっている。男はそれに気づかない。気づけるはずもない。彼はただ、蕩けるような表情で私を見つめ返し、この後の甘い展開を夢想している。
愚かなこと。
愛しいこと。
人間とは、そういうものだ。すぐに恋に落ち、盲目になる。だから私は何度も殺されかけたし、何度も誰かを救う羽目になった。
これは、そんな私の物語。人でなく、人魚でもない、この化け物染みた私(わたくし)が、誰かの愛と優しさに触れるたびに、エリーの呪いを紐解いていく、長い、長い旅の記録。
いつか、すべてを許し、愛せる日は来るのだろうか。
エリー。君の望んだ『永遠』の果てに、何があるというのか。
琥珀色の液体を飲み干し、私は席を立った。男が慌てて何かを言うが、その言葉はもう私の耳には届かない。過去の残響の方が、よほど雄弁なのだから。
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