第3話


「わたしは死んでないよ?」

 不思議そうに小首をかしげ、そんなことを言う。

「……うん、そうだね。でも君はあの時死のうとしてた。違うなんて言わないよね?」

 彼女は腰の後ろで手を組み、コンクリートを蹴ってつまらなそうに地面を見つめる。

「理由なんてどうでも良くないかな?」

 どうでも良い……訳が無いだろう。僕があの時彼女の体を捕らえて引き戻していなければ確実に彼女は死んでいた。地面の上でそのたおやかな体は不自然に折れ曲がり、ぐちゃぐちゃになっていたはずだ。僕はそれをどうでも良いと言える人間だろうか。

「……はっ、偽善者がよ…」

 僕は誰にも聞こえないほど小さい声で、僕自身に対して毒づいた。勿論この声は彼女にまでは届かない。

 僕はため息をつく。まあ、昨日会ったばかりなのだ。僕に明かせないことはいくらでもあるだろう。死のうとした理由、なんて特に。

 ……ふと、もう一つ気にかかっていた事を思い出した。昨日彼女が僕にした最初の質問だ。

『君にはどんな敵がいる?』

 これはどういった意味だったのだろう。初対面の相手に聞くにはあまりに突飛な質問だ。

「──君には敵がいるの?」

 僕は何気なさを装って聞く。ヴィカは顔を上げてぴくりと耳を動かした。

「そうだね、多分わたしには敵がいるんだよ」 

「それは誰?」

「んーー、秘密」

「………」

 さっきから言っている事があまりに要領を得ない。僕はなんだか帰りたくなってきた。

 

 その時、曇り空からぽつぽつと雨のしずくが降ってきた。いかにも降りそうな空模様だと思ってたけど、その予想が当たったようだ。一回屋内に入ろうか、と言うまでもなく、彼女は塔屋の階段を降りて下に行っていた。

 下の階はほぼ全ての備品が撤去された後でがらんとしていたが、事務椅子が一つだけ残されていた。ヴィカはそこに腰掛けた。

「………」

 スコールのように降る雨の音が聞こえる中で、僕らは何を言うでもなく向き合っていた。

 無限とも思える時間が過ぎた。彼女はずっと黙っていても平気そうだったけど、僕の方がいたたまれなくなってきたので、再び声をかける。

「すごい雨だね」

 ……いや待て、何を言ってるんだ僕は。このタイミングで天気の話なんかし出してもしょうがないだろう。だがヴィカはそんな僕の言葉にさらりと返答する。

「そだね。わたし傘持ってきてないから、びしょ濡れで帰らないとね」

「……家は遠いの?」

「遠くない。でも、そう、わたしに家は無いから」

「えっ……」

 ホームレスの方なのか、この子は。身綺麗だしあまりそういう感じには見えないけど。

 僕の戸惑いに気付いたのか、彼女は訂正する。

「家はあるよ。でも、家っていうのは安心出来る場所の事でしょう?そういう意味ならわたしには家はないんだ」

「……そっか。そうなんだ」

 僕は少しうつむく。そうだ。そういう状況というのはあるんだ。

「それは家にいると安心出来ない、って事なのかな」

 これ以上踏み込まない方が良いような気もしたけど、僕は尋ねてみた。それは身勝手なお節介のようなもの。ある意味毒を食らわば皿まで、みたいな。

「ううん、今住んでるところは普通。一人暮らしだしね。でもわたしはこの世界にいるうちはどこにいても安心出来ない」

 ──ふいに色々な事が僕の中で繋がった。ヴィカが言っていた「敵」の話。彼女には敵がいる。そしてそれが彼女がこの世界で安心出来ない理由なのだ。きっとそうに違いない。

 僕はまじまじと彼女を見つめてみた。赤みがかったやや長い髪に、お嬢様然とした白いブラウスといった格好。身長は女性にしては少し高いぐらいだろうか、僕よりは低いから165cm前後といったところだろう。

 出会った時から思っていたけれど、ヴィカの存在の全てはどこか現実離れしていた。人気のない廃ビルの屋上で出会った事といい、いきなり飛び降りの真似事をしだした事といい。この世界を誰かが見て操っているとしたら、その誰かがこの世界に気まぐれで置いたチェスのポーンのような存在が彼女なのだ。

「……ふっ」

 僕は思わず笑ってしまった。何がおかしいと云うのでもないけど、なぜか。

「そっか。君には敵がいるんだね」

 僕はどこか皮肉めいた口調で語りかけた。彼女が答える前に続ける。

「──だったらさ、僕に一つ手伝いをさせてくれないかな」

「なんの手伝い?」

 彼女は首をかしげた。僕は迷わずに答える。

「君の敵を探す手伝いだよ。その敵を見つけ出して、君のために滅ぼしてあげる。──君がそれを望むならね」


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