ディスハーモニー・サマー

川上いむれ

第1話

 


 真実は君を自由にする                   



  ◇ ◇ ◇ 



 僕は階段を一歩ずつ上がっていた。十二段、十三段、十四段……最後の一段を上がり、目の前にある扉を開く。


 そこは見はらしの良い屋上だった。中天の太陽の光が降り注ぐ中、夏の風がこの20×30メートルぐらいの広さの空間を吹き抜けていった。

「………」

 僕は屋上の端にまで行き、ポケットに手を突っ込んで、下を見下ろす。眼下に広がるのはこの地方都市の街並みだった。メガロポリスにはほど遠いが、かと言ってけして小さくもない一つの都市。それが今僕がいる街だった。

 僕はポケットから煙草の箱を取り出し、一本を口にくわえた。ライターも取り出し、火をつける。風により何度か失敗した後、火をつけるのに成功する。


 かたり


 ──僕は何者かの足音を聞いた。それは僕の背後からだった。おかしい。今この場所には僕一人しかいないはずだ。僕は振り向いて確認した。

 僕と反対側の屋上の端に、一人の女性がいた。まだ若い、というよりどこか幼さが残るように見える彼女は僕に語りかけた。どこか俗世離れしたような不可思議な笑みを口の端に浮かべて。


「ここは禁煙だよ」


 僕はごくりと唾を呑み込んだ。何かを考える間もなくほぼ反射的に僕は答えた。

「……禁煙じゃない。ここはとっくの昔に放棄されてるんだ」

 僕らが今立っている場所は廃ビルの屋上だった。テナントは全て撤退し、新しい資本が投下される事もなく朽ち果てるがままになっている鉄筋コンクリート作りの建物。それがこの廃ビルだった。

 彼女はつ、と塔屋を指差した。見ると塔屋の壁にぼろぼろに色褪せた「喫煙禁止」の貼り紙が貼ってあった。

「……誰も気にしないよ。ていうか誰もいないし」

 君以外には。というかそもそもこの子は誰なんだろう。

「……まあいいか。今日は帰ろう」

 揉め事は嫌いだ。小声で呟くと僕は黙ってその場を去ろうとした。だが、塔屋の扉に手をかけようとした時に呼び止められた。

「待って。少しだけ、いいかな」

 僕は扉の方を向いたまま止まった。振り向かずに答える。

「──僕はもう帰ろうとしてる。誰にも迷惑はかけないし、君の視界に居座る事もしない。それだけじゃ不足なのか?」

 たん、と足音。振り向くとその女の子は屋上の縁に立っていた。両腕を水平に伸ばし、ゆらゆらとバランスを取る。

「───!」

 危ない。何をしてるんだこの子は──死にたいのか?

「君さ、一つわたしの質問に答えてくれないかな?」

 ──風に吹かれながら、今にも倒れそうに危うくバランスを取りながら彼女は言う。

 ……なんだこの状況は。この女の精神状態は明らかに尋常じゃない。薬でもやってるのだろうか。僕はなるべく彼女を刺激しないように冷静を装って言う。

「分かった、答えるよ。でもその前にそこから降りてくれ。目の前で人死にが出たら寝覚めが悪いからさ」

 彼女は両腕をゆっくり下ろし、微笑んだ。でも少し高くなっている屋上の縁からは降りず、僕にこうたずねた。


「君にはどんな敵がいる?」


 ──何を言ってるんだろう、この子は。質問の内容が突飛で、僕の思考は一瞬止まってしまった。でも数秒間だけ考えて答える。


「僕には敵はいない」


 彼女は目を伏せた。でも表情に浮かんだ微笑は消さない。ややあってそれに対する返答を告げる。


「そうなんだ。──でもさ、この世界で誰かを憎まずにどうやって生きていけるのかな?」


 ごくり。僕は生唾を呑み込んだ。彼女の言葉は僕の理解から少し外れた領域にあったが、その何かが僕を引きつけた。僕は答えた。

「知らないよ。──さあ、そこから降りてくれ。さっき質問は一つって言ってたよね?」

 彼女は笑った。さっきとは違う弾けるような快活な笑いだ。

「まあ、待ってよ。もう一つ、最後に質問したいんだ」

「何だよ?僕だって忙しいんだって。いつまでも遊びに付き合ってる暇はない」 

 彼女はすうっと息を吸い込むと再び両腕を広げてバランスをとった。強い風が吹き付けてきた。


「私がここから飛び降りて死んだら、どうなると思う?この世界は」


 何を言ってるんだ君は──と、僕は言おうとした。でも僕の口から出てきたのは違う言葉だった。


「何も変わらないよ。君が死んでもこの世界は動かない。この世はそのぐらいじゃ変わらないさ」


「そう、なんだ」


 彼女はそう言うとゆっくり体を傾けた。スローモーションで彼女の体が向こう側へ落ちようとするのが見える──。

 僕は走り出した。すんでのところで傾きかけた彼女の体を腕でキャッチし、そのまま屋上に倒れ込む。二人して無様に屋上のコンクリートの上に倒れ込み、僕らは埃まみれになった。


「……なんて日だよ、マジで…」

 僕は息をつきながら小声で呟いた。隣には推定自殺志願者の彼女。僕らは塔屋の壁を背にして二人で座り込んだ。

「……なんで死のうとしたの?それも僕の目の前なんかで」

 言った後で少しまずいような気がした。この言い方では「自分と関係無い所で死ぬ分には問題ない」と言ってるようではないか。

 でも彼女は気にする様子もなく答えた。それも僕の顔を覗き込んで不思議そうに。

「うん?別にわたしは死ぬ気なんて無かったよ?」

「はあ!?それじゃあなんであんな事…」

 彼女は立ち上がった。塔屋の扉に手をかける。僕を見下ろしてこう答える。

「わたしはまだ死ぬ時じゃないと思ってたんだ。それに君なら止めてくれそうだったからね」

 

 そう言うと、彼女はビルの階段を降りて僕の視界から去っていった。


 

 



 



 

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