第2話 距離感


 ひとり静かになった図書館。校庭ではまだ生徒の叫び声が、廊下には足音が未だに響いている。

 けれど、今の図書館は限りなく静かにだった。心の奥にまで沁みわたるような、深い静寂。

 俺はもう少し、本を読もうと思った。文字を追えば追うほど、喧騒は遠のいていく。


「そろそろ、図書館締めますよ」


 司書の声で、ようやく現実に引き戻される。もうこんな時間か。やはり、読書は心が静かになる。

 本を静かに閉じ、そっと書棚へ戻す。俺は図書館を後にする。



 外は薄暗くなり、まだ冷たい風が銀髪を揺らした。学校から十分程だろうか、少し離れた寮へと向かう。


「お兄ちゃん! あれ、ヌシくんじゃない?」


 聞き慣れた声がした。見上げると、寮の二階の窓に志貴と、まりの姿がある。

 同じ寮なのだろうか。


「お、山野! 今日、一日お疲れ」


 “友達”という言葉が、頭に浮かぶ。

 不思議と、胸の奥があたたかくなった。自然と、表情が緩んでいた気がする。

 軽く手を振りながら、寮の階段を上がった。


「山野。登校初日、どうだった?」


 考える。どうだったか――正直、いろんな感情が入り混じっている。けれど。


「ふつうだな」


 その一言に、まりが笑った。


「ふつうだって! なら、いいんじゃない?」


 “ふつう”は、良いことなのか。俺にはまだ分からない。

 けれど、まりの笑顔がそれを肯定してくれているなら、きっとそれでいいのだろう。

 俺の部屋は、志貴とまりの隣だった。少しだけ、心強いと思った。


 ――こうして、俺の一日目が終わった。

 学校生活というのも、案外、悪くない。


    ◇



 朝の風は、昨日よりも少しだけ暖かかった。

 今日は、他の生徒たちと同じ時間帯に寮を出た。道には、同じ制服を着た人間たちが、列をなして歩いている。


 ――皆、同じ方向へ、当たり前のように進んでいく。


 その光景が、なぜか懐かしく感じた。

 けれど同時に、胸の奥で黒い何かが渦を巻く。集団が近づいてくる。それだけで、足が少し止まりかける。


 ――集団で向かってくる。何かを、思い出しそうだ。


 そんなときだった。背後から、声が飛ぶ。


「あれ? 山の主さんじゃない?」

「お、そうじゃん! 山から登校か?」


 振り返ると、昨日教室で笑っていた男女の姿があった。

 女子は明るい金髪で短めの髪。男子は茶髪の短髪で、どこか軽薄そうな雰囲気を纏っていた。


「……おはよう」


 俺は昨日、こいつらに笑われた。

 少し警戒しながらも、挨拶を返した。礼儀は、大切だ。


「おはよう! 龍園結って言うんだ! これからよろしくね」


 金髪の女子――龍園結は、まっすぐな笑顔を向けてきた。

 笑っていた奴のはずなのに、今は、敵意が感じられなかった。


「おい、お前本気かよ? ちょっと不気味だぜ。」

「なによ、柊。意外とカッコいいじゃん。それに綺麗な銀髪、羨ましいなあ」


 柊、というらしい男は、俺を見ながらあからさまに眉をひそめた。

 けれど、結の言葉はどこか素直で、意外にも心に引っかかるものがあった。


「友達……」


 思わず口に出していた。けれど、その一言が――。


「うわ、こいつキモッ……“友達”だってよ」


 柊の言葉が、空気を濁らせる。

 まるで、俺の願いを踏みにじるかのような口調だった。


 ――違う。俺は、ただ話したかっただけだ。

 けれど、言い返すことはできなかった。

 喉が詰まり、声にならなかった。


「柊、あんた黙ってなさい」

「……は?」

「そうよ。私たち、“友達”よ」


 龍園結の言葉は、強く、真っ直ぐだった。

 ……驚いた。けれど、少し嬉しかった。


 敵ではない人間が、また一人増えた気がした。

 友達――その言葉が、ほんの少しだけ、現実味を帯びて聞こえた。


    ◇



 教室は相変わらず賑やかだった。

 扉を開けても、誰もこちらを振り向かない。それぞれが、自分たちの輪の中で話し、笑い合っている。


 ――まるで、最初から俺なんて存在していないみたいだ。


 その静けさが、逆に心地よくもあった。 人の視線に晒されるよりは、ずっといい。


 静かに席に着くと、隣の席には昨日、図書館で見かけた――山田の姿があった。

 眼鏡にマスク、そして長い黒髪。

 一瞬、目が会った。けれど、彼女は本に視線を戻した。


 ……少し気まずかった。

 彼女とも、友達になれるだろうか。なれたらいい。でも、それがどんな感情なのか、まだよくわからない。

 そんなことを考えているうちに、教室の喧騒が少しずつ静まっていく。

 チャイムが鳴った。


「はい、席について。ホームルームはじめますよ」


 担任の声が響き、今日という一日がまた、静かに始まる。


 今日から本格的に、授業が始まる。

 どんなことを学べるのだろうか。気づけば、少しだけ胸が高鳴っていた。

 勉強に、というより、“この世界を知る”ということに、どこか好奇心が湧いていたのだ。


 そんな中、担任が俺の席のほうへと近づいてきた。


「ごめんなさい。まだ教科書届いてないみたいだから、山田さん、山野くんに見せてあげてもいい?」


 隣の席の彼女は、一瞬だけ目を見開いた。けれど、その表情はすぐに隠され、静かに頷く。


「ありがとう。じゃあ、席くっつけて」


 俺は椅子を引き、机をそっと寄せる。その距離は、思っていたよりも近かった。

 隣に座る彼女の存在が、妙に意識に引っかかる。

 本を読むときとは違う、変な緊張感。たった数十センチの距離が、こんなにも心をざわつかせるとは思わなかった。


「先生! 私、教科書いらないし、山野くんにあげるよ!」


 前の方から、明るく響く声。

 朝、出会ったあの子――龍園 結が、手を挙げながら担任に訴えていた。


「はいはい、席について。ちゃんと教科書開いて。」


 担任が苦笑しながら、結の肩を軽く押さえる。

 場の空気が、少しだけ和らいだ。


 ……こういうのが、“日常”というやつなのかもしれない。


 俺は、そっと山田の教科書を覗き込む。

 彼女は何も言わず、ページを少しこちら側へ傾けてくれた。


 それだけで、少しだけ救われたような気がした。


 授業が始まった。

 先生の声はどこか穏やかで、板書の音が心地よく響く。

 俺は教科書を眺めながら、隣のページをそっと目で追っていた。


 ふと、気配を感じて横を見る。

 ……彼女の視線が、こちらを向いていた。


 目が合いそうになった瞬間、彼女はぱっと教科書に目を落とす。

 その動きがあまりに素早く、どこかぎこちなかった。


 また数分後、視界の端に気配がよぎる。

 俺が視線を向けると、やはり彼女の視線がこちらにあった。


 目が合うと、今度は眼鏡の奥で、彼女の瞳がわずかに揺れた。

 でも、すぐに伏せられる。


 ……なんだろう。そんなに、俺のことが変か?


 彼女の様子には、単なる好奇心以上の何かがあった。 敵意ではない。けれど、普通の関心とも少し違う。


 ――たとえるなら、それは“見つけようとする目”だった。

 まるで、自分と似た何かを探すような。


 昨日の、あのやりとりがよぎる。

 眼鏡も、マスクも、俺は防具だと思っていた。


 あのとき、彼女は……少しだけ笑ったように見えた。

 人と話すのが苦手そうだったのに。


 ……もしかして、あの一言が、彼女にとって何かだったのか?

 わからない。でも――。


 教科書の端が、わずかにこちら側に寄せられる。

 ほんの数ミリの距離。

 それでも、俺はそれが“彼女なりのやり方”なのだと、なんとなく察した。


 お昼のチャイムが鳴る。


 教室はざわめきに包まれ、椅子を引く音があちこちで響く。

 隣を見ると、山田と再び目があった。


「……山田」


 思わず声をかける。


「……ありがとう。教科書、助かった」


 一瞬、山田の表情がわずかにやわらいだ気がした。

 けれど、それを確認する前に――。


「山野くん〜っ! 一緒に食堂行こうよー!」


 元気な声が、教室の前方から響いた。

 振り向くと、金髪の少女――龍園 結が、にこにこと手を振っていた。

 他の生徒が視線を向けるほどの声量だったが、彼女は気にする様子もない。


「ん? なに、誰と話してたの?」


 彼女の視線が、隣の山田に向く。


 山田は眼鏡越しに、じっと結を見つめる。


「ちょっとだけ、話してただけだ」


 俺がそう答えると、結はふっと笑った。


「ふーん? でも、昼ごはんは一緒がいいな〜。ね、行こ!」


 腕を取られる。明るく、無邪気な仕草だけれど、そこにわずかに強引さが混ざっていた。

 山田は、鞄から小さな弁当箱を取り出していた。それを、机の上にそっと置く。音すら立てずに。

 まるで、教室という空間に溶け込まぬように、ひっそりと。

 それはまるで、「私はここでいいから」と言っているように見えた。


「あの子……いつも一人なんだよね」


 結の言葉に、俺は返事をしなかった。

 けれど、胸の奥に、ひっかかるものが残っていた。


 教室の隅、静かに弁当を開く彼女の姿が、なぜか、目に焼きついて離れなかった。

 俺たちの「距離」は、まだ、始まったばかりだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る