15話 誘惑だらけの勉強会【前編】

「駿〜……あたし、このままじゃ夏休み、ないかも……」


がっくりと机に突っ伏した柚月の腕が、半袖のシャツの隙間から覗いている。

その白く細い肩先に、窓から差し込む陽射しが静かに揺れていた。

この世界に来て、二か月あまり。

気づけば、期末テストは目前――そしてその先には、初めての“こちらの世界”での夏休みが待っている……はず、なのだが。


御堂は机に沈んだ彼女の背中を見つめ、静かにため息を吐いた。


「中間テストのときも言ったよね? 勉強見てあげるって。それなのに、自分で頑張るって言い張って、あの散々な結果……」


「うぅ……だって、駿に甘えてばっかりじゃダメかなって思って……。

 数学と物理と科学……何がわかんないのかも、もう分かんない……」


柚月はふにゃっとした声で、唇を尖らせてぼやく。


「それくらい甘えなよ。まぁ、ただ働きはしないけど――ちゃんと、君が対価を払ってくれればね?」


(……柚月の夏休みがなくなると、一緒にいる時間もなくなるしな)


「ありがとう――――っ!!!」


顔をぱっと上げた柚月が、満面の笑みを浮かべる。

“対価”という言葉は、案の定、右から左へ抜けていったようだ。

御堂はそれでも言質を取ったつもりで、にっこりと“人のよさそうな”笑みを返した。


「明日休みだし、俺の家、来る?」


「いいのっ?……いくいくっ!」


その瞬間――


「はーいっ! それなら俺も行くー!」


声が飛んできたのは、柚月ではなかった。

御堂が眉をひそめて振り返ると、廊下からひょっこり顔をのぞかせた唯斗が、満面の笑みで手を挙げていた。

そしてその横には、腕を組んだまま眉間に皺を寄せた美空がぴたりと立っている。


「……君たち、いつから聞いてた」


「今! ちょうど今!」


唯斗はまるで偶然を装うように笑っているが、その目は明らかに狙っていたやつだ。


御堂は静かに、深く――心底うんざりしたようにため息を吐いた。


「君を誘った覚えはないんだけど」


「えー、いいじゃん! 俺も学年1位に教えてもらいたいし〜」


「学年2位が、そこにいるだろ」


御堂がちらりと視線を送ると、美空がぴくりと眉を跳ね上げた。


瞬間、彼女の目つきが変わる。

切れ長の瞳が、わずかに細められ、その奥に冷たい光が灯る。


「……唯斗」


低く、よく通る声だった。静かだが、威圧感がある。

その一言で唯斗はぴたりと動きを止めた。


「だってさ〜、空ちゃん超スパルタなんだもん……」


「は?」


美空の目がさらに鋭さを増す。

唇の端がわずかに上がり、笑っていない笑みを浮かべる。


「スパルタが嫌なら、自力で頑張れば?」


その声色には明らかに怒りが含まれていたが、それをあくまで冷静に、優雅に包み隠していた。


唯斗は肩をすくめながら、「ごめんって」と軽く返すと、ぽん、とごく自然な仕草で美空の両肩に手を置く。


「それにさ、みんなでやったほうが楽しいでしょ? 空ちゃんも、柚月と一緒に勉強したいよね?」


唯斗の言葉に、美空の睫毛がわずかに震えた。


「……それは……」


一拍の沈黙。

強気だった表情が、ほんの一瞬だけ緩む。

美空は視線をわずかに逸らしながら、小さく頷いた。

それは認めたくなさそうな、けれど否定しきれない素直さのにじむ仕草だった。


すかさず、柚月が嬉しそうに声を弾ませる。


「うんうんっ、いいね! 私も賛成!」


「じゃあ決まりっ! 明日、10時に八王子駅集合で!」


テンポよく話が進んでいくのを横目に、御堂はこめかみを押さえる。


「……おい、俺の意見はどこへ行った。そして、なんで俺の家の場所知ってんだ」


本当は、柚月以外の誰かとつるむのも、余計な視線が増えるのも、あまり気が進まない。

せっかくの時間を、誰にも邪魔されたくない――それが本音だった。


疲れたように嘆息する御堂の横で、柚月は相変わらず無邪気に笑っていた。

――その笑顔を見てしまえば、文句を言う気もどこかへ消えていく。


(……しょうがないな)


小さく視線を伏せて、御堂はあきらめたように呟いた。


「言っておくが、俺はただ働きはしないからな」


そんなわけで――

こうして、四人の勉強会は決行されることとなった。



翌日、午前10時。八王子駅。


「まったく。わざわざアイツの家まで行く必要なんて……」


むすっとした顔でぼやく美空の隣で、柚月は楽しそうに笑っていた。


「ふふ、でもソラちゃんとお出かけ久しぶりで嬉しいよー♪ せっかくお土産も買ったんだし、みんなで食べよっ」


ふわりとしたレースのブラウスにデニムスカート、白のスニーカー。

甘めでスポーティな柚月らしいコーディネート。

美空は白のTシャツに薄手のパーカー、ショートパンツにスニーカーと、どこかボーイッシュな装い。

タイプは違えど、制服でなくとも二人が並べば、自然と周囲の視線を引き寄せる。


――そして、その視線を断ち切るように、ふたりの前に立って先導するのは唯斗だった。


ラフなシャツに無造作な髪、どこか“雑誌の表紙”にいそうな爽やかイケメン風。

その場にいるだけで、女子の視線が集まるタイプだ。

もっとも本人にもその自覚はあるらしく、愛想よく微笑んでは軽やかにスルーしていく。


(ほんっと、この二人、無自覚すぎるんだよなぁ……御堂君も心労絶えないだろうな)


唯斗はそう思いながら、肩をすくめて歩き出した。


――果たしてこのメンバーで、勉強になるのかどうか……不安しかない。


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