葉山、国境を越える。
結局フランのことはよくわからぬまま、日が傾く頃に、車は道路の上を走り出した。
進む道の先、脇に大きな看板が立っているのが目に入る。そこに書いてある文字は――
「コレヨリサキ フラン リョウ」。
――国境か。この先は、ついに……
「ここからフラン領よ。近くの街でフランの将軍と落ち合うことになってる」
「フラン領……」
ついに来ちまった。そうつぶやいて、唾を飲む。
車はさらに数刻走り、あたりはすっかり薄暗い。
眠気がだんだん増してくる。ちょいとお昼寝を……いや、レーナさんがピシッと起きている以上、俺だけスヤスヤ寝てはいられない。
眠気覚ましに窓の外を覗く。すると、寂しい道路の上を、少し距離をとって車が一台、後ろを走っているのが見えた。
だが、その動きはどうも慎重に見える。ただ後ろを走っているのではなく、あえて一定の距離をとっているような――
「……つけられてる?」
「つけられてますね。フラン軍でしょうか。どうします? レーナさん」
ルドルフさんがダンディに問いかけた。
「まったく、変な真似なんかしないわよ……」
レーナさんがため息をつく。そして俺のすぐ隣、窓からひょっこり顔を出した。
ちょっ、急に近い近い近い!
おっπあたるよ!!
「ハヤマ、どこ?」
「あ、あそこです」
「……ほんとだ。ルドルフ、せっかくだからあの車に道案内してもらおう」
レーナさんが窓から身を乗り出して、後ろの車に手を振った――その時。
道が悪かったのだろうか。
車がガタンと揺れた。
「うわっ!」
レーナさんが体勢を崩し、俺の肩に倒れこんだ。
反射的に振り返る。
目の前に――レーナさんの綺麗なお顔があった。
「あっ、ごめ……」
――あまりに近すぎて、その栗色の瞳に、俺の顔が映っているのがみえる。
ふわり、一つに結いあげた茶色い長い髪が揺れ、甘い香りが鼻腔を満たす。
それに、唇に柔らかい感触。
あぁ、柔らかい何かが――
――触れて、いる?
へっ??
「……ッ!」
レーナさんも状況を理解したのか、目を見開いて素早く身を引き戻した。
そしてふいっと目を逸らされた。その華奢な肩は、かなり縮こまっている。
「…………」
俺も――視線を泳がせる。
えっと……こんなラブコメお約束の展開の時は、どうするのが正解だっけ?
なにか話した方がいいだろうか? とりあえず謝罪?
いやでも謝罪なんて逆に失礼にならないか? むしろさ、美女とハプニングキッスだなんて俺はなんてラッキーなんだ!とかなんとか、とぼけた方がいいのでは??
加熱気味の頭を、ぐるぐる高速で回していると。
「…………ごめん」
レーナさんが消え入りそうな声でつぶやいた。
女性に先に謝罪させてしまった。なんたる不覚……
「い、いいえ、こちらこそすみません……」
俺も動揺を隠しきれない声で答える。
「……今のはただの……事故だから。気にすることはないわ」
「はい。すみません、ほんと……」
「…………」
レーナさんは目を逸らしたまま、黙りこんだ。
――レーナさんも俺も、ちゃんとわかっている。
本当に事故。奈美に申告する必要もない、これは純然たる事故だ。なーんの気もない、たんなる事故。
レーナさんも、気にしていない。
俺も、気にしない。
それなのに――
「…………」
なにこの空気。
なにさっきのレーナさんの表情。
なにこのざわめき。
なにこの感情――。
座り直し、向こうの窓から外を眺めるレーナさん。耳が真っ赤に染まっている。夕焼けの……せいだよな?
その姿を直視できない。
なんとなく、ルドルフさんの方も見れなくなった。
◇◇◇◇◇◇
車内は実にビミョーな空気のまま、俺たちを追い越し先を進む、フラン軍の車を追っていく。
なだらかな丘陵地から、だんだん畑が増えくる。と思ったら建物が並び始め――いつのまにか街に入った。
ポツポツと街灯のともりはじめた、フランの街。
暗くてハッキリとは見えないが、レーナさんが言っていた通り、建物の雰囲気とか、街を歩く人々の服装は、〈拠点〉のあったベルガの街とよく似ている気がする。
やがて前方の車が、ひときわ大きな、金持ちの家らしき建物の前で止まった。俺たちの車も続いて止まる。入り口にフラン兵が何人も控えていて、彼らの視線が痛いほど刺さる。
ルドルフさんに礼を言い、レーナさんが車を降りる。――俺も続く。
ルドルフさんは「お気をつけて……ハヤマさん、ファイトです」と言い残し、車を走らせ去っていった。なにがファイトなんですか、ルドルフさぁん……
建物のドアが開く。軍服姿の男たちがズラズラ出てきた。
緊張に、手に汗を握る。
その中の1人、50代くらいの立派な口髭の男がスタスタ歩いてきて、俺たちの前で立ち止まった。
ジロリ。まるで値踏みするような目線を向けられる。
隣に立つレーナさんが、もともと綺麗な背筋をさらに正して、その男に向き合った。
「……ペタン将軍。私はレーナ・モルテーヌ、ベルガ国王妃の使者、漢字解読官の護衛として参りました。こちらが我が国の解読官、ケイゴ・ハヤマです」
ペタン将軍とよばれたその男は、手を後ろで組みながら、うむ、と頷き俺をみた。
自然と背がシャンとする。
挨拶を、しなくては。
「は……初めまして。ハヤマと申します」
ペタン将軍がまた頷いた。
「ミスター・ハヤマ、レディ・モルテーヌ。よくぞいらした。お二人とも、どうぞこちらへ。さほど遠くないとはいえ、気が張って疲れたでしょう。ここでは身の安全の心配は不要です。だがベルガ国の軍服は目立ちすぎますな。着替えを用意させましょう」
ペタン将軍はそう言って、鋭い眼差しのまま、穏やかに口角をあげた。
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