第18話 マール
3月の夜空に、冬の名残がしぶとく残り、白い粉が舞っていた。
季節がめくれそうで、めくれきれない。そんな宙ぶらりんな夜。
コートの襟を立てながら、女は路地裏の静かな道を歩く。
足取りは軽くも、重くもない。ただ、決まっているように。
古びたネオンサインがまた、赤と青の静かな光で迎えてくれる。
店の名は……
R66【ルート・シックスティシックス】
その明かりに、女は口元だけで微笑んだ。
カラン……コローン……
やわらかな照明、そしてスピーカーから流れ出るオールディーズ。
マスターが磨いていたグラスを置き、短く会釈する。
「こんばんは」
「こんばんは。……今日はちょっと強めで」
と言いながらカウンターの右端に座る。
「強め……ですね。どんなふうに?」
「ショットで飲めるようなのがいいな」
マスターは棚を見上げ、少しだけ思案し、うなずいた。
「マールという酒があります。フランスの蒸留酒で、ぶどうの搾りかすから作られたものです。……ショットでも飲めますが、少しずつどうぞ」
「それ、ください」
冷やしたショットグラスに、透明な液体が注がれる。
その香りは、かすかにぶどうの皮の渋みと、土を思わせる余韻を含んでいた。
女は、それを前にして、まだ飲まない。
バッグからポケベルを取り出し、液晶の数字を見つめて、吹き出した。
「……また、これ」
ショットグラスを指でくるりと回しながら、マスターに見せる。
「見て。『14106』……“愛してる”だって」
マスターは目を細めたまま、何も言わなかった。
「これね、浮気してるときだけ来るの。あの人のクセ。
罪悪感か、バレたくない気持ちか……急に送ってくるのよ。
こっちはお見通しなのにね。それがまた、滑稽で」
女は笑った。それは、あまりにも乾いた笑いだった。
そして、グラスをそっと唇に運び、ほんのひと口だけ、マールを含んだ。
(冷たい。でも……妙にスッとする)
目を閉じて、喉に落とす。
喉元を通る強さが、どこかで張りついていた何かを剥がしていくようだった。
「ずっと気づかないふりしてた。問い詰めてもどうせ、また言い訳するだけだし。
でもね、今日やっとわかったんです。わたし、もう十分だなって」
「……そうですか」
「“愛してる”なんて、ほんとチープに使われると安っぽくなる。
だけど、なんでだろ……もう哀しいとか、悔しいとか、ないんです。
ただ、終わりにしようって、ふつうに思えた」
もう一口、マールを口に運ぶ。
今度は、少しだけ長く舌の上にとどめてから、ゆっくり飲み干した。
「……これ、いいですね。余計なものを削ぎ落としてくれる感じ。
恋の終わりには、ちょうどいいお酒かもしれない」
マスターはグラスを磨きながら、小さくうなずいた。
___________
カラン……コローン……
「ごちそうさま。……今夜はもう、ポケベルも鳴らないでしょうね」
「またいつでも」
ドアの向こうに出ると、雪は止み、空気がほんの少しだけ春めいていた。
まだ冷たい風が、そっと背中を押してくる。
別れは、だいぶ前からわかっていた。
それでも今日、ようやく本当の意味で手放すことができた。
未練もなく、恨みもなく、ただ静かに。
⸻
マール──
それは、痛みを引きずらずに終わらせるための、一滴の潔さ。
もう振り返らない、けれど苦さだけは、まだ少し残っている。
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