第27話「選ばれてない奴の、選ばれ方」

 空気は相変わらず冷たかった。だが、その冷たさが、昨日よりほんの少しだけ肌に馴染んでいる気がした。


 いつもの裏通りを歩きながら、僕──アルフ・ブライトンは、革袋の中でわずかに揺れる銀貨の音を聞いていた。


 街のざわめきはまだ遠く、陽はまだ石畳の上に届いていない。ギルドへ向かうのではない。今日も駐屯地へ向かう。ザイランとの修行が、すっかり日課になりつつあった。


 駐屯地の前には薄い朝霧がかかっていて、空気の中にうっすらと火薬と土の匂いが混ざっていた。かつては足がすくむだけだったこの空気も、いまではどこか安心に近い感覚さえある。


(……さあ、今日も粉ミルクからだ)


 そんな覚悟ができているあたり、僕もだいぶ毒されてきたのかもしれない。


 ザイランは、今日も変わらぬ様子でそこにいた。


 腰に皮袋、手には酒。目を細めて瓶をぐるりと回しながら、無言のままこちらを見ている。


 その視線には、どこか機械的な正確さと、底知れない無関心が同居していた。


 片手でぶん、と空の瓶を放ると、僕に向かって無言で木製のマグを差し出してくる。


 中身は、例の白い粉末。


「……ありがとうございます」


 ぎこちない礼を述べながら、僕はいつも通り井戸水を注ぎ、粉を溶かす。が──


 今日のそれは、いつもよりもさらに混ざらず、ダマが浮いていた。


 ぐるぐると木匙を回しながら、団員たちの声が耳に入る。


「おい見ろ、今日のミルク、アルフのやつ一等濃いぞ」「あれ、昔の隊長と同じ比率じゃねぇか?」

「意味は知らんけど……効くって言うよな。昔、あの人が飲ませてたって噂もある」


 “あの人”──誰かが続きを言いかけて、黙った。


 それがどういう意味かを考える前に、僕はぐいとそれを飲み干した。


 喉を通る瞬間、ざらつきが舌を引っかき、微かに苦みが走った。


(……くぅ、沁みる)


 昨日なら顔をしかめていたかもしれない。でも今日は、ただ飲み込んだ。


 胃に届く感覚と、団員たちの含み笑い。その中に、一人の団員がぽつりと呟いた。「……お前も、こっち側に来たな」


 肩を軽く叩かれる。手加減のないその一拍が、不思議と悪くなかった。


 “効くだけ”でも、“変わらない”何かがあることが、ちょっとだけ嬉しかった。


 そしてその直後──


「坂道、百往復。逆走でな」


 その言葉が落ちるまでの、ほんの一拍。

 耳の奥で、飲み込んだ粉ミルクがざわりと音を立てた気がした。


 ザイランの一言が、朝の儀式を終わらせた。


 今日も、地獄の坂が僕を待っていた。


* * *


 脚に巻かれた重りが、地面に打ちつけるような衝撃を伝えてくる。


 逆走、坂道百往復。


 距離そのものは長くない。だが、登り坂を駆け上がり、踏ん張りながら下ることを繰り返すだけで、太ももとふくらはぎが鉛のように重くなっていく。


 息が上がる。汗が目に染みる。視界が揺れる。


(それでも──)


 今日は、足が少しだけ軽かった。

 それが訓練の積み重ねのせいか、それとも隣に誰かがいるからなのか、自分でもわからなかった。


 いつもなら、ただ黙々と一人で、誰にも気づかれないように坂を登っていた。

 だが今日は、隣にも、前にも、後ろにも、同じように汗を流す背中がある。


 誰かの足音が響くたび、自分の呼吸が不思議と整っていく。

 何も言葉を交わさなくても、鼓動が、呼吸が、足取りが、少しずつ重なっていく。


 足を止めようとするたびに、喉の奥であの粉ミルクのざらつきがざわりと甦る。あの朝の苦味と熱さが、まるで「まだ止まるな」と背中を押してくるようだった。


「おいアルフ、足運び、乱れてきてるぞ!」


 前方で声が飛ぶ。騎士団員の一人、リースだったか。

 並走していた彼は、疲労の色を見せることもなく、整ったフォームを保ったまま振り返って言った。


「重りは、上じゃなくて下を意識しろ。腰がブレると膝やられるぞ」


「っ……はい!」


 短く答える。だが、すぐに改善できるわけじゃない。

 頭ではわかっても、足は思うように動かない。バランスを崩し、踏ん張った拍子に膝に違和感が走る。


(くそ……意識すればするほど、体がバラける)


 呼吸を整え直す。周囲の足音をもう一度、拾い直す。


 すると、ふと──

 誰かの足取りと、自分のタイミングがぴたりと合った。

 それが誰かはわからない。けれど、その瞬間、自分の重心がスッと定まり、脚が自然に前へ出た。


 その感覚は、まるで足音に呼吸を引っ張られたような不思議なものだった。

 靴底が砂を掻く音、皮鎧がわずかに軋む音──そのすべてが、静かな呼吸のリズムと重なっていく。


 昨日の訓練場の光景が、脳裏をかすめる。

 隊列を組んで行進する騎士たち。

 短い号令で動きを揃え、誰一人として無駄な動作をしない。

 その後方、訓練場の影に、ザイランが静かに立っていたことを思い出す。あの視線は気づけばいつも届いていた。


 あの連携の正体を、いま、体で少しだけ理解できた気がした。


 ザイランが言っていた。「間合いとは、自分と相手との呼吸だ」と。


 誰かに合わせているのではない。

 誰かと一緒に動くために、自分を調整していく──それが、いまここにある感覚。


 そのときだった。


「お前、動き、前より自然になったな」


 隣で走っていた団員が、ぼそりと呟いた。

 背が高く、左利きだった気がする。だが、その言葉は、今の僕の脚よりもずっとまっすぐに胸へ届いた。


 強い言葉ではない。賞賛でもない。

 ただの、事実としての変化。


 けれど、そのひと言が、今日の訓練の痛みをひとつやわらげてくれた気がした。


 脚はまだ重い。

 呼吸は荒く、汗も止まらない。

 だけど胸のどこかが、ほんの少しだけ、軽くなっていた。


* * *


 訓練が終わる頃には、全身が汗で濡れ、脚は棒のようになっていた。


 昼食を取る場所として案内されたのは、駐屯地の一角にある粗末な屋外テーブルだった。だが、その質素さとは裏腹に、鍋の中からは野菜と肉の煮込まれた香りが立ち上り、空腹の腹を容赦なく刺激してくる。


「今日は新顔がいるからな。多めに炊いてるぞ」


 配膳を任されていた団員が、そう言って笑う。器を受け取り、テーブルについた僕に、さっそく誰かが話しかけてきた。


「お前、朝の粉ミルク、えらい濃かったらしいな」

「見た目はほとんど粘土だったって聞いたぞ」


 笑い声が起きる。からかうようでいて、どこか親しげだ。


「……まぁ、覚悟の味でした」


 思わず漏れた僕の返しに、さらに笑いが弾けた。


「つーかさ、あの訓練、そろそろ人道的にアウトだと思うんだよな」「昨日の“段差スキップ百回”で太ももが破裂するかと思ったぞ」

「誰だよ、坂道百往復なんてメニュー考えたやつ……って、ザイランさんしかいねえか」


 ため息交じりに、空を仰ぐ者もいる。

 愚痴のようでいて、そこには不思議と笑いも混じっていた。


「……まあ、今日は午後も多少はマシだといいけどな」


 油断とも願望ともつかないつぶやきが漏れる。


 器に盛られた煮込みは、雑だがしっかりと煮込まれていて、味が染みている。思わず黙って噛みしめていると、隣の団員がふと声を落とした。


「なあ、あの粉ミルクってさ、なんで飲ませるのか知ってるか?」


 唐突な問いに、他の団員たちもぴたりと箸を止める。


「昔、ザイランさんに拾われた奴らは、みんなあれを飲んでたらしい。味には意味があるって噂もあるけど……本当のところは誰も知らねえ」

「ただ、あれを飲み続けてた奴らは、みんな死ななかった。だからって、俺たちも何となく続けてるだけだ」

「それって、ただの偶然なんじゃ……」

「かもな。でも、ザイランさんに拾われたやつらが最後まで立ってたのも事実だ」


 遠い視線で語るその横顔は、茶化しでも武勇伝でもなく、ただ静かだった。


 粉ミルク──あの苦味に、そんな意味があるのかもしれない。


 思わず器の中を覗き込む。そこにはもう煮込みしか残っていないはずなのに、喉の奥に、朝のざらつきがまた蘇った気がした。


 そのとき、背後の空気がひやりと冷えた。音ではなく“圧”のような何かが、背筋を撫で下ろした。


「──喋る口があるなら、動かせる脚も残っとるな?」

 その声が届いた瞬間、誰もが手を止めた。


 一斉に空気が凍る。


 ザイランだった。


 誰が何を言うよりも早く、彼は言葉を続ける。


「午後は訓練場の整備と、試練走じゃ。坂は飽きたろうから、今度は段差を登るぞ」


 まるで昼食の余韻を断ち切るように、その声は容赦なかった。


「訓練場裏の壁──あれを、一〇〇回。登って、降りる。登って、降りる。それが終わったら、一〇〇回、逆立ちで腕立てじゃ」


 誰かが喉を鳴らす音が聞こえた。誰も笑わなかった。さすがの団員たちも、昼の余韻を飲み下すことしかできないようだった。


 けれど、その中で、僕は思っていた。


(これも、意味のある“痛み”かもしれない)


 そして、そのときふと、誰かが小声で呟いた。


「……あいつ、いよいよ“選ばれた側”だな」

 その言葉が、喉の奥にざらつきを残した。

(……それは、まだ飲み込めないままだった)


 それが僕のことを指していたのか、それとも過去の誰かの記憶だったのかはわからない。


 ただ、もう立ち上がりながら、僕の脚は覚悟を決めていた。


 また苦しむことになる。それでも──


 きっとこの先に、昨日とは違う自分がいる。


 そう信じて──いや、信じたいと思いながら、僕は壁の方へと向かって歩き出した。

* * *

 夕暮れの駐屯地には、少しだけ風が吹いていた。


 訓練を終え、使い切った脚で屋根裏部屋へと戻る頃には、空が茜に染まりかけていた。


 壁の段差登り百回、逆立ち腕立て百回。

 最後は脚も腕も言うことを聞かなくなって、転がるように倒れ込んだ。


 でも、誰にも笑われなかった。

 団員の一人が「……まぁ、倒れるなら最後までやってからにしろ」と言って、隣で同じようにうつ伏せになっていた。


 あの時の土の匂いと、ほんの少しだけ笑った空気が、胸に残っている。


 夕焼けを背にして、屋根裏の梯子を上る。

 部屋に戻っても、身体はぐったりしているのに、どこか頭が冴えていた。


 あれほど苦しかったのに、なぜか「戻れない気がする」と思っている自分がいた。


 その理由はわからない。

 けれど──


 窓際に腰を下ろし、今日一日の景色を思い出す。

 粉ミルクのざらつき。

 坂道の足音。

 団員の言葉と、笑いと、声。

 ザイランの“圧”。


 すべてが、確かに“ここ”にあった一日だった。


(……明日も、同じ顔では待ってくれない気がする)


 それでも僕は、もう一度そこに戻りたいと思った。


 ポケットの中で、最後の銀貨が一枚、音を立てた。

 明日の朝、粉ミルクが飲めるかは、ちょっと怪しい。


 でも──


「……腹は満たされた。財布は空っぽだ。でも──なんか、悪くない」


 つぶやいた自分の声が、屋根裏部屋にひっそりと響いた。

 誰に聞かせるでもなく、ただ、自分の胸に返ってきた。


 明日が来るのが、ほんの少しだけ楽しみに思えた。



【第27話 成長記録】

筋力:11(熟練度:26 → 33)(+7)

 → 坂道百往復、段差登攀百回、逆立ち腕立て百回という連続高負荷訓練により、下半身を中心とした全身筋力が継続的に使用され、明確な筋力増加が見られた

敏捷:11(熟練度:16 → 20)(+4)

 → 坂道逆走訓練での足さばき調整、隊列内での歩調合わせ、段差反復による重心制御訓練など、瞬間的かつ連続的な動作の精度が向上

知力:10(熟練度:92 → 94)(+2)

 → 団員との会話から粉ミルクの意味や訓練の構造を内省し、“繋がり”の意味と訓練の意図を深く理解し始めたことで、背景認識力・思考の深化が見られた

感覚:14(熟練度:44 → 47)(+3)

 → 団員との足音・呼吸の自然な同期体験により、周囲との連携に対する感知力が向上。また、ザイラン登場時の“圧”の察知など五感外の読解力も僅かに進展

精神:12(熟練度:89 → 95)(+6)

 → 騎士団との協調訓練、継続的な激務への順応、粉ミルクの“苦味の意味”を理解し受容する覚悟、ザイランの言葉と行動に含まれる“孤高と伝承”への共鳴などにより、大幅な内面強化が生じた

持久力:15(熟練度:76 → 86)(+10)

 → 長時間にわたる連続訓練(坂道→段差→逆立ち腕立て)を完遂し、動きの中での疲労管理や最後の力を振り絞る持続力が飛躍的に強化された


【収支報告】

現在所持金:744G

 内訳:

 ・前回終了時点:765G

 ・朝食(果物):−3G

 ・夕食(ノネズミ亭):−8G

 ・宿泊費:−10G


【アイテム取得/消費】

・取得:なし

・消費:なし


【装備・スキル変化】

武器:スレイルスピア(変更なし)

スキル:《間合制御》

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