第26話「ほんの一刃分」
ノルの背中が、遠かった。
あのとき僕がどれだけ全力で槍を振っていたとしても、その動きが誰かに届いていたかといえば、きっと違ったんだと思う。自分の意図も、間合いも、伝えるべきものが空回りしていた。そんな感触だけが、胸の奥に鈍く残っていた。
ギルドの依頼から一夜明けて、約束の日が来た。
三日前──ザイランに言われたのだ。「三日後にまた来い」と。ただ、それだけだった。理由も、課題も、何も告げられなかった。
それでも今ならわかる気がする。あのときの僕には、きっとまだ準備が足りなかったんだ。だからこそ、今は……違う。
「……もう一度、教えてください」「次は、ちゃんと“伝える”。そのために、教えてください」
心のなかで言葉を繰り返すたび、覚悟が形になっていくのを感じた。
僕はグラウエルの駐屯所へと足を向けた。ザイランはそこの特別軍事顧問として、限られた者にだけ鍛錬をつけている。
門の前で名前を告げると、見張りの兵士は少し驚いたような顔をしたが、すぐに通してくれた。
中庭の一角──控えめな焚き火の煙が、風に流れていた。その前で、例によってザイランが胡坐をかいて、湯呑みを傾けている。
「……ようやく“のれん”叩きおったか」
こちらを見ずに、そう呟いた。相変わらずの調子。でも、その声がどこか嬉しそうに聞こえたのは、気のせいじゃなかったと思う。
「僕は、変わりたいんです。槍を、動きを──もっと“伝える”ものにしたい。どうか、教えてください」
深く頭を下げる。背筋をまっすぐに伸ばし、言葉に迷いが出ないように。
「スキル開いたからって、それで終いではない。そこからが“始まり”じゃ」
そう言ったザイランは、立ち上がると無言で近くの棚から白い小瓶を取り出した。そう──あれだ。
差し出されたのは、例の“粉ミルク”。 無言で受け取り、よく分からないまま水に溶かす。
混ぜ方が雑だったのか、表面に粉の塊が浮かんでいる。それを我慢して口に運ぶ。
「……っ、ぶはっ……!」
むせた。喉の奥に粉がへばりついて、息を吸うたびに喉が痒い。目が潤んでくる。
「それは“気が立っとる”証拠じゃ」
当然のように言い放たれたが、意味はわからない。
でも、それがザイランの流儀だ。
僕は、飲み干したコップを置き、背筋を伸ばし直す。覚悟はできている。
──もう一度、ゼロから学ぶつもりで。
“通じる”動きを。
* * *
朝露を残す土の上、ザイランは無言で立ち上がった。その背中に、威圧ではなく“試す者の重さ”があった。
「よう見とけ。今日の鍛錬は“通じる”ためのものじゃ。見せかけの型を捨てていけ」
そう言って、ザイランは一本の竹の棒を地面に突き立てた。
「まずは──目ぇ閉じて、耳でわしを捉えろ」
第一の課題は、“音を読む”ことだった。
ザイランはアルフの周囲をゆっくりと、しかし不規則な足取りで歩きはじめる。
草を踏む音、衣擦れ、呼吸、風に乗る焚き火の音までが混ざる中、アルフは耳に集中する。
しかし、次の瞬間──乾いた音とともに、足元へ小石が転がってきた。
「惑うな。音が一つじゃと誰が決めた」
再び足音。急に止まり、反対側から聞こえ──また止む。
(違う、わかってる。これじゃ読めない。聴こうとすればするほど、音は遠のいていく)
「……駄目だ、読めない」
「耳で聴こうとするからじゃ。気で、読め」
何を言っているのか分からない。でも、その声には確信があった。
再び目を閉じ、心を静かにする。
──風の流れが変わった。いや、違う。気配だ。気が、動いた。
アルフは反射的に体を右へ捻る。ザイランの掌打が背後を素通りしていった。
「ほう、ようやく“気”を掴みかけたか」
息をつき、膝に手をつく。全身の緊張がじわじわと抜けていく。いまの感覚……偶然じゃない。確かに何かを“読めた”気がした。
「次は、音を消せ。枯れ枝を踏まずに、わしの背後を取ってみい」
訓練用の地面には、わざとらしく折れやすい枯れ枝が散らばっている。
(気配を通すには、まず“気配を消す”……)
慎重に、一歩一歩を置く。
呼吸を浅くし、靴底の角度を調整し、重心を分散させる。
……パキッ。
一本の枝が、沈黙を裂いた。
胸が熱くなる。悔しい。いまのは、いけたと思ったのに──
「今のは、心が騒いどった証拠じゃな」
「“通じる”には、まず己を鎮めよ。伝える準備ができとらん者の動きは、誰にも届かん」
静かに、言葉が沁みていく。悔しさと、納得と、まだ遠いという感覚が混ざる。
そうして幾度も繰り返し──ようやく一歩、音なく踏み出せたとき。
「わしについてきた部下は何人もおった。だが、最後まで残ったのは一人もおらん」
背を向けたまま、それだけをこぼした。
その背中に、ただの寂しさではない“覚悟の残り火”のようなものを感じた。
アルフは視線を落としかけ──そして、そっと拳を握った。
(それでも、僕は──)
* * *
昼下がりの太陽が、訓練場の土を乾かしていた。風も音もなく、空気が張り詰める。
ザイランは無言で立ち、槍を手にした。アルフの目の前に立ち、目を細める。
「言葉は要らん。動きだけで、通じ合うことを考えてみい」
そう言い残すと、ザイランは構えを取った。……だが、動かない。
(始まらない……?)
沈黙。構えたままのザイランは、微動だにしない。
攻めても来ない。誘いもない。ただ、じっと、こちらを見ているような気配。
アルフは、ゆっくりと前に出た。いつも通りの間合いで──槍を振る。
スカッ。
乾いた空気だけが、虚しく腕を通り抜けた。
(……っ)
ザイランはすでに、間合いの外にいる。気づけばいつの間にか、後方へ回り込んでいた。
空振りの反動で、肩が熱を帯びる。足元がぐらついたまま、アルフは振り返った。
ザイランは何もせず、そこに立っていた。その目は、試すでも拒むでもない。ただ、受け止めようとする沈黙。
(これは──試されてるんじゃない。委ねられてるんだ)
(どう動くか、じゃない。どう“伝えるか”だ)
もう一度、構えを取る。
深く息を吸い、槍先を前に向ける。
……けれど、そのままでは、きっと何も変わらない。
アルフの胸に、一瞬だけよぎる。
(ただ届かせても、きっと意味がない……)
(むしろ──外してこそ、見えるものがあるのかもしれない)
なら──伝えるんだ。
僕が、ここにいること。
いま、届かせたい意志があること。
一歩、踏み込む。
そして、あえて間合いを“半歩外す”。そこから、突き出す。
届かせない。けれど、伝える。
ザイランの眼が、微かに動いた。
ほんのわずか、眉が寄る。
そして、彼が初めて動いた。
その槍先が、こちらを傷つけることなく止まる。互いの動きが、呼吸のように交差する──瞬間。
(──いまの、“通じたかもしれない”)
ザイランの動きに、ほんの一瞬だけ遅れがあった。
否、あれは──わざと、受けた。
言葉はない。ただ、視線だけが交わった。
そして──風が吹いた。
それは、沈黙が終わる音だった。
* * *
ザイランは槍をゆっくりと下ろした。
目を細め、しばらく沈黙のままアルフを見ていたが、やがて口を開いた。
「……ほんの一刃分。だが、それが“生き残る”距離じゃ」
その言葉は、どこか寂しげで、けれど確かにあたたかかった。
アルフは何も言えず、ただ静かに頷いた。
胸の奥に、さざ波のような震えが残っている。
届いたのか、届かなかったのか。
いや──
届かせようとした、自分の動き。
伝えたかった、ただそれだけの想い。
それが、初めて“誰か”に触れた気がした。
ザイランは踵を返し、無言で歩き出す。
その背中が、不思議と小さく見えなかった。
「……また、来ます」
ぽつりと呟くと、ザイランは背中を向けたまま右手を軽く挙げた。
それだけ。
だが、その一瞬の仕草に、確かに何かが“返ってきた”ように思えた。
その日、訓練所を出る頃には、夕方の風が吹き始めていた。
火照った頬に当たる風が、どこかやさしかった。
……いや、ほんの少し、冷たくて気持ちよかった。
アルフは歩きながら、ふと空を見上げる。
(伝わった──そう思ったのは、たぶん“僕だけ”だったかもしれない)
でも、もしそれでも。
この“一刃分”の差が、いつか命を守るなら。
通じ合える未来に、ほんの少しでも繋がるなら──
その一歩を、僕は信じたい。
それが、ほんの一刃分でも──。
【第26話 成長記録】
筋力:11(熟練度:26 → 26)(±0)
→ 訓練中に槍を構え続けたが、実戦的な負荷や連続動作がなかったため変化なし
敏捷:11(熟練度:12 → 16)(+4)
→ 静音移動や足音制御、重心移動の鍛錬、半歩ずらす間合いの調整などにより洗練が進む
知力:10(熟練度:89 → 92)(+3)
→ “通じる構え”の構築、視線と意志の伝達、距離感の調整と判断などに知的負荷を要したため
感覚:14(熟練度:38 → 44)(+6)
→ 気配察知の強化、足音や空気の微細な変化を読む訓練、“気で読む”感覚開拓による顕著な成長
精神:12(熟練度:83 → 89)(+6)
→ 気配に耐える集中と緊張、悔しさの受容と再挑戦の覚悟、沈黙の中での意志伝達の決意
持久力:15(熟練度:74 → 76)(+2)
→ 長時間の訓練継続と集中状態の維持、気力を削る対面訓練によるスタミナ消費
【収支報告】
現在所持金:765G
内訳:
・前回終了時点:785G
・朝食(果物購入):−2G
・夕食(ノネズミ亭):−8G
・宿泊費:−10G
【アイテム取得/消費】
・取得:なし
・消費:なし
【装備・スキル変化】
武器:スレイルスピア(変更なし)
スキル:《間合制御》
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