夜の檻【完】

月夜。

第一章 出会いは静かに、運命のように

喫茶店「コリドール」は、

午後三時を過ぎると客がまばらになる。

店内に流れるジャズが、

空席を埋めるように柔らかく響いていた。

夜凪はカウンターの奥で、

静かにカップを拭いていた。


——その日、彼が来た。


入り口のベルが鳴った瞬間、

顔を上げた夜凪の目に飛び込んできたのは、

疲れたような、

それでもどこか優しい顔立ちの青年だった。



「……コーヒー、お願いします。苦いのがいい」



言葉少なに注文したその人は、

テーブル席ではなく、

わざわざカウンターに腰を下ろした。

夜凪は、差し出された注文を受けながら、

ふとその指先を見た。

ペンだこがある。細い指。

何かをたくさん書いてきた人の手だった。



「初めてのお客さんですよね?」

「……うん、たまたま前を通って」

「この時間、静かでおすすめなんです」



それが、彼——綾斗との最初の会話だった。

どちらからでもなく、

会話はぽつりぽつりと続いた。

夜凪が語ることは少なく、

綾斗はそれを急かすこともなかった。

ただ、彼の声だけが耳に残った。

誰かを壊さないように話す人の声だった。



その日から綾斗は、

毎週同じ曜日の同じ時間に

「苦いコーヒー」を頼みに来るようになった。


夜凪にとって、それは少しだけ生活に色が差す瞬間だった。




けれど——。

その色は、やがて深く、濁っていく。

静かに。確実に。

あの日の「衝撃」は、すぐそこまで来ていた。

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