春の名を歩く【完】

月夜。

第一章 見送る背中

雨上がりの庭に、紫陽花が咲いていた。

小さな葉の上に、まだ雨粒が残って光っている。

美桜は、縁側に座る祖母・桜子の隣に

腰を下ろした。


「もう決めたのかい?」


桜子がやさしく問いかける。


「うん。また、行こうと思う」


美桜は静かに答えた。

一度は夢を追って都会へ出た。

音楽の世界で、何度も迷って、失敗もした。

けれど、諦めきれない。

桜子の体調が悪化して帰郷したあの日から、

心のどこかでずっと揺れていた気持ちに、

ようやく答えを出した。


「美桜。あんたは、“桜”の名を持ってるけどね、

私はあんたを紫陽花のようだと思ってるよ」


「紫陽花?」


桜子は微笑んで、咲き誇る紫陽花を指差した。


「紫陽花はね、土の色で花の色が変わるんだよ。

どんな場所にあっても、自分を変えて、

咲いてゆく。

それでも根っこはしっかりと張って、

強く生きてるんだ」


美桜は、小さく頷いた。

桜子の手を取る。小さくて、

でも不思議と力強い手。


「だからね、美桜。振り返らずに、歩きなさい。

後ろを振り向かずに歩ききった先に、

夢の国があるから」


小さい頃から、何度も聞いた言葉だった。

けれど今、ようやくその意味が

胸に染みた気がした。


「ありがとう、おばあちゃん。

……行ってくるよ」


空はもう晴れて、柔らかな風が吹いていた。

紫陽花の花がそっと揺れる。


それは、誰かが静かに

背中を押してくれるようだった。

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