第7話 人生で初めての推し
◇◇◇◇
「ただいまー」
紫苑は自宅のドアを開ける。
家は強い日差しを遮ってくれる分、比較的涼しい。
「え? 紫苑? まだ十一時半だけど。学校また早退してきたの?」
おかえり、でもなく、台所に立つ桃子が強い口調で問いかけるものだから、紫苑はすっかり縮み上がってしまう。
「……うん。ちょっと具合悪くなっちゃって。でも先生が出席扱いにしてくれるかもって」
「へえ。そんなことでいいのかねぇ」
興ざめしたように鍋をかき回す桃子。
怒っているわけではないと思うが、気の強い桃子はいつもこんな調子だ。
(イライラする)
紫苑は、「褐平さん、また釣りに出かけちゃって。じっとしてればいいものを」と祖父の愚痴を誰に聞かせるでもなくつぶやく桃子を無視して、さっさと自分の部屋に引き上げることにした。
「あ。その前に」
紫苑はテレビの横の棚に置かれている男性の写真に手を合わせた。
写真の男性は、紫苑の父親、草一だ。
草一は、紫苑が生まれる数か月前に、事故で亡くなったという。車道に出てしまった子供を助けるためだった。
優しくて、少し天然な人だったと、紅里から聞いている。生まれたときにはもういなかったため、声すら聞いたことはない。
でも、会ってみたかったとは思う。
写真の垂れた目とか、紫苑はお父さんに似たのね。
小さいころ、父親のことを訊くたびに、紅里はそう言って柔らかく笑って、紫苑をぎゅうと抱きしめてくれた。
紫苑の目線は、自身の首から下げているロケットペンダントへ向く。このペンダントは、開くと名前と同じ「シオン」の花の写真が入っている。
草一はシオンの花が大好きで、このペンダントも、彼の遺品だという。
キク科の植物で、秋に紫や白の花を咲かせる。花言葉は、『あなたを忘れない』
読書家だった父は、シオンの花言葉の由来である今昔物語集を読んで感銘を受けたそうだ。
紫苑はやはり父親に似ているらしく、小学生のころはずっと図書委員で、友達がいないのをいいことに本ばかり読んでいた。
おかげですっかり眼鏡ポン子だ。
シオンの咲く秋は、紫苑が生まれた季節。
紫苑が父親を忘れないように、紅里がつけてくれた名だった。
中三の冬、その名前の由来とロケットペンダントを紅里に渡され、紫苑は高校へ進学を決めた。
理由はぼんやりとして頼りないが、このペンダントを持っていれば、両親に包まれているような気がしたのだ。
「紫苑~? 早く帰ってきたんだったら、お手伝いしなさい」
「あとでやるー」
いきなり飛んできた桃子の指示を軽く流して、紫苑は自室に飛び込んだ。
「はぁ~。疲れた」
紫苑は着替えもそこそこにベッドにダイブし、スマホを取り出す。
スマホの画面に映っているのは、カラフルなフリフリ衣装を身にまとった、インフィニティ・カラーズという七人組女性アイドルグループだ。
紫苑は、このアイドルグループを推している。
特に、黒色担当の
「はあ~。あ、エッ、七月七日に二十七枚目のシングル発売⁉ 新曲聴けるの? うわ、有彩ちゃんパート多くない⁉ はあ~可愛い」
今日、紫苑が学校へ行っている間解禁された、新情報に紫苑のテンションはうなぎのぼりだ。
スマホで、ティザーのミュージックビデオを何度も繰り返し再生する。
黒の衣装で踊る有彩は、表情管理がとても上手い。
黒という暗くて一見縁起の悪そうな色の衣装を、見事に着こなす有彩はまるで夜の女王様のよう。
ターンするたびにきらきらとなびく柔らかな色の金髪は、黒い夜空に浮かび上がる月さながらだった。
「今日も推しが尊い……」
スマホを抱きしめ、頬を上気させる紫苑。
だが、再度目にした動画のコメント欄を見て、サッと笑みが崩れた。
『いい歳のおばさんがかわい子ぶってて草』
「は……?」
この暴言は、紫苑に向けて言われたわけではない。
ましてや、こんな顔も名前も知らないような奴のコメントなんて気にする必要はない。もっと言ってしまえば、有彩は紫苑の友達でもなければ家族でもない。
でも、さっきまでとは違い、顔から笑みが欠落していくのが分かる。
曲がりなりにも、有彩は紫苑の人生で初めての推しだ。
不登校だった時期、紫苑の暗黒時代。
このアイドルに支えてもらった。
自分の好きな人が他人に悪く言われているのは、ショックだった。
(確かにね? インフィニティ・カラーズは今年十周年を迎えるベテランアイドルだけどね?)
有彩は今年で三十歳になる。彼女が二十歳のときにインフィニティカラーズが結成された。
彼女らのキャリアは長いが、紫苑は有彩を三年前に知ったばかりだ。
ミュージックビデオの再生回数は二百万回を突破しているものもあるが、テレビ出演は多くない。
いわば、知る人ぞ知る、といった感じだ。
だが紫苑は動画のおすすめ欄に出てきた有彩の笑顔に魅せられた日から、毎日最新情報を追っていた。
もっとこのグループを早く知っていれば、と後悔するほどだ。
そこまで考えて、紫苑はふっと肩の力が抜けた。
自分が好きならば、それでいい。
誰の意見もその人のものだが、紫苑の好きという気持ちだって、誰にも否定できないものだから。
ましてや、顔も名前も知らないような人のどうでもいいコメントに、傷つけられる必要はない。
紫苑は気を取り直して、過去のライブ映像の動画のサムネイルをタップする。
紫苑が一番好きな曲のライブ映像だ。
踊りながら歌っているのに、歌声がちっともブレない。口から音源だ。
この動画は、紫苑が何回もリピートしている動画だった。
インフィニティ・カラーズ……略してインカラは、イベント出演だけでなく、度々ワンマンライブを開催している。
ファンクラブも存在する。
……ライブに行きたいと思ったここは一度や二度ではないが。
桃子は言うまでもなく、紅里にさえ、このアイドルが好きだと話したことはない。
否定されるのが怖いからだ。
好きならばそれでいいと偉そうなことを考えておいてこういうのもなんだが、自分の大切な人に、自分の好きな人を悪く言われるのは嫌だった。
紫苑ができるのは、こうして動画の再生回数を伸ばすことと、インカラが登場する雑誌を買うとか、それくらいだ。
ライブなんてお金がかかるし、県外なんて行けるわけがない。
紅里に負担をかけたくない……それもあるが、本当のところは一人で電車に乗ってライブハウスに行き、他のオタクたちにもみくちゃにされる勇気と体力がない。
(事後販売とかでライブグッズだけでもポチれないかな……)
スマホを胸に握りしめ、ボーっとそんなことを考えていると、
「紫苑ー? 洗濯物干しといてくれない? やらないとお昼お預けだよ!」
桃子の声が一階から響いてきて、紫苑は肩を落とした。
(まあ、ばあちゃんにはいろいろお世話になってるから。言い返す権利はないんだけどね)
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