第39話 鍵が受け継がれる喜び


 暑さが和らぎ、風が日毎に涼しく感じられるようになってきた。

 王都から南東へ少し離れ、夏の名残のバラが咲き乱れる小さな地方都市に、白銀の馬車が到着した。


「マリアベル王妃殿下、こちらが現地の孤児院『ひかりの家』でございます」


 付き従う侍従が告げると、馬車の扉が静かに開かれた。薄水色のローブに身を包んだマリアベルは、落ち着いた表情で一歩を踏み出した。


 結婚を機にマリアベルの肩書きは、王政事務局・政策推進室長から王政事務局・政策推進部 特命政策顧問に代わっていた。

 マリアベルには王太子妃としての仕事もあるための措置だ。


 王妃としての正式な初視察。それは単なる形式ではなく、マリアベル自身が望んで選んだ公務の第一歩だった。


 出迎えた院長は、五十代の穏やかな女性だった。


「ようこそおいでくださいました。子どもたちも大喜びでして……どうぞ、こちらへ」


 マリアベルが院内に足を踏み入れると、小さな靴音と笑い声が響いた。年端もいかぬ孤児たちが、次々と集まり、王妃の裾に手を伸ばす。


「絵本、読んでくださるの?」


「ねえ、お姫さま? 本物のお姫さま?」


「……お姫さまじゃなくて、お仕事するひと、よ」


 マリアベルは微笑みながら、子どもたちの小さな頭を撫でた。


 その後、スタッフから院の現状や課題について丁寧な説明がなされた。予算の不足、教育資材の欠如、養子縁組の機会の少なさ――。


「教育の機会を整えるだけで、子どもたちの未来は変わります。就職や縁組の成功率も……」


「ええ。“選択肢”のない子どもほど、未来を閉ざされる……それではいけませんね」


 その言葉を、後ろに控えていたクラリッサ・リースが静かに噛み締めたように頷いた。


 かつて貴族でありながら社会から距離を置かれた経験を持つ彼女にとって、ここで目にした現実は他人事ではなかった。


(この問題は……私が受け継ぎますよ。マリアベル様……)


* * *


 王都へ戻って数日後、王宮のサロンでマリアベル、クラリッサ、そして母・カトリーナが顔を揃えた。


「孤児院支援のための民間基金設立ですか……?」


「ええ。名前は――“未来への鍵基金”にしようと思っています。

 教育機会の提供と、孤児たちの自立支援を目的とした制度です」


「『鍵』という名を冠するなら、クラヴィス家が資金の出し手となるのに、これほどふさわしいことはないわね」


 カトリーナは、迷いなく話を続ける。


「クラリッサが実務を担当してくださるなら、私がが喜んで出資しますわ。どうかしら、クラリッサ。

 お母様が成し遂げたいと願っていた子供の教育の問題……あなたと一緒にやりたいわ」


「カトリーナ……ありがとう。私も……微力ながら尽力させていただきます。

子供の教育……あなたのお祖母様、ベルティーヌ様の想いも形にしましょう」


 “未来への鍵”は、こうして静かに動き出した。


* * *


 王政事務局では、次なる改革として教育政策の見直しが本格化していた。


 特に「女子教育の義務化」と「就学支援制度」は、マリアベルの提言により重点項目とされ、教育局で新たな動きが始まっていた。


 その中枢を担う人物として、セラフィーナ・ヴォルテが次官補佐に任命された。


「やるべきことは山積みです。けれど、ようやく“本当の教育”が始まります」


 きっぱりとした声に、周囲の官吏たちも背筋を伸ばした。


 幼い頃から家の方針に縛られてきた彼女が、今では国家教育政策の一翼を担う存在へと成長したのだ。


* * *


 記録局では、もう一人の女性の活躍が注目されていた。


 アイリス・フォーセットが、新たに立ち上げられた『女性活躍推進記録編纂チーム』のリーダーに抜擢されたのだ。


「女性がどのように制度に関与し、社会を変えてきたか。

 歴史として記録することは、未来の理解に繋がります」


 資料室にこもりながらも生き生きと話す姿は、以前の冷静な分析官とは違う、“誇りを持つ職人”の顔だった。


* * *


 ある日の午後、マリアベルは王太子妃の私室で報告書に目を通していた。


 だが、ふとした瞬間、手が止まり、額に冷や汗が滲んだ。


「……うっ……」


 急なめまいと吐き気。立ち上がろうとして足元がふらついた瞬間、控えていた侍女が慌てて駆け寄った。


「マリアベル様! すぐに侍医を!」


* * *


 診察の結果は――妊娠だった。


「……ご懐妊です。恐らく、三ヶ月目に入ったところかと」


 侍医の言葉に、マリアベルは呆然とし、そして目を潤ませた。


「……命が、宿って……」


 喜びと、戸惑いと、責任と――すべてが押し寄せた瞬間だった。


 そして、報を受けたカザエルはというと――。


「しばらく執務は控えさせよう。運動も制限すべきだ。冷える場所は禁止。食事も――」


「ちょ、ちょっと落ち着いて!」


 マリアベルが苦笑しながら止めるのも構わず、彼は次々と侍医や侍女たちに指示を飛ばしていた。


「……君が倒れたとき、心臓が止まるかと思った。だから……頼むから無理はしないでくれ」


 そう言って彼は、そっとマリアベルの手を取った。


「この国の未来も大事だけど……君の笑顔と、これから生まれてくる命が、いちばん大切だ」


 その言葉に、マリアベルはそっと頷いた。


「ありがとう。……わたし、頑張るわ。ふたりのために。そして未来のために」


 王妃として、改革の旗手として、そして――母として。


 マリアベルは、またひとつ、新たな春を迎えようとしていた。

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