第31話 マリアベルが恋に気づき始める
王宮の儀典長が、一枚の書状を高らかに読み上げる。
「――王太子カザエル・グランディール殿下は、クラヴィス家の令嬢マリアベル・クラヴィスと婚約を交わされたことを、ここに王命として広く宣言する」
その瞬間、王宮の大広間には歓声とどよめきが入り混じった空気が流れた。
祝賀の花々が飾られた会場には、各界の重鎮たちが揃い、輝くような夏の装束に身を包んだ貴族たちが列席していた。
マリアベルは淡いクリーム色のドレスに身を包み、王家の宝飾工房があつらえた銀糸の薄手のケープを纏っていた。
凛とした佇まいの中にも、どこか緊張の色が浮かんでいる。
「……本当に、発表されてしまったのね」
アイリスがそっとため息まじりに囁く。
「おめでとう、マリアベル。
でも……この雰囲気、まるで即位式のようじゃない?」
「確かに……国中が注目しているのは間違いないわね」
セラフィーナは冷静に言いつつも、彼女なりに感情の揺らぎを隠せない様子だった。
「あなたは“同志”として結婚を選んだつもりかもしれないけど……それだけじゃないのはもう気づいているのよね?」
アイリスの言葉に、マリアベルはわずかに眉を寄せた。
「……どういう意味……?」
「政だけの話なら、ここまで戸惑わなかったと思うの。あなた、今朝からずっと落ち着かない顔してるわよ。“殿下が他の女性を見たら嫌だな”って思ってない?」
「そ、そんなこと……」
言いかけて口をつぐむ。だが、胸の奥でほんの少し疼くような感情が、否定できずにいた。
(私は……“同志”として隣に立ちたかった。それだけだと思っていたけれど……)
カザエルの隣に立つ自分を誰かに奪われる想像をしたとき、どうしようもない寂しさと――怒りに似た感情すら湧いたのだった。
* * *
その夜。
式典の後、王宮の一室にて。
「マリアベル」
カザエルが控え室に入ってきた。人払いがされた空間で、ふたりきりの時間が流れる。
「疲れていないか? 今日は君にとって大変な日だったろう」
「はい……けれど、無事に終えられてよかったです。殿下の言葉がなければ、ここまでは……」
「やめてくれ。その“殿下”って呼び方は、少し距離がある」
カザエルはいたずらっぽく微笑みながら、彼女の手を取った。
「マリアベル。君を選んだのは政治的理由だけじゃない」
マリアベルは、黙ってその手を見つめていた。
「僕は、君の歩みを見てきた。困難に抗い、誇り高く進み続けた君を。いつしか、政治家としてだけじゃなく……ひとりの女性として、強く惹かれていた」
「……そんなふうに、言われると……」
思わず目をそらしそうになったが、カザエルのまなざしがそれを許さなかった。
「――政だけじゃない。君の笑顔も、怒った顔も、少し疲れた顔も、全部を見ていたい
ただ、君と生きたい。それが僕の、答えだ」
その瞳に宿る熱に、マリアベルは言葉を失った。
――これは、政略ではない。信頼と誓い、そして恋情の混ざった“本物”なのだと。
* * *
西方視察を終えたヴァレンティス宰相が、王政事務局に戻ったのは、マリアベルとカザエルの正式な婚約が発表された直後のことだった。
帰還の報が届くや否や、局内に緊張と期待が走った。
マリアベルは、正装から簡素な政務服に着替え、執務室の扉を開けて彼を出迎える。
「……お帰りなさいませ、宰相」
「うむ……戻ったぞ」
長旅の疲れを感じさせぬ堂々たる足取りで、ヴァレンティスは机の前まで進み、静かにマリアベルを見据えた。
「まずは……婚約、おめでとう。まったく驚かされたよ。殿下があれほど早く動くとは思わなかった」
「……ありがとうございます」
マリアベルは、照れを隠すように少し目を伏せた。
「だが、それだけでは済まぬ。
君がここにいる間、代理職として果たした政務――そのすべてが、実に見事だった。通常の業務や決裁処理、女性官吏制度の採択から、実施準備、人事調整、保守派の対応……どれひとつとして雑になされていない
局内の人員の扱いも見事だったという。まだ全員を扱いやすい環境ではなかっただろうが」
「……至らぬところも多く……ですが、皆の協力があってこそです」
ヴァレンティスは、ふっと笑った。
「謙遜はいい。君はもう、そういう段階ではない」
彼は書類の束を机に置き、その中から一枚を取り出す。
「これが、王政内務局から提出された最終報告だ。パルト・レザンの件についての公式記録だよ」
「……!」
マリアベルは思わず身を乗り出した。
「君に対する一連の襲撃が、“女性官吏制度”を潰すために組織的に行われたものであり、主犯がレザン公爵であることが明記されている。王命により捜査が行われ、複数の政治献金と昇進口利きの証拠も揃った」
宰相の口調は淡々としていたが、その瞳は深く鋭かった。
「……かつて私が“この国を内から変える人材が必要だ”と言ったことを覚えているか?」
「……はい」
「その候補者が、今、目の前にいる。――君だよ、マリアベル・クラヴィス」
しばしの沈黙。
そして、ヴァレンティスは初めて少し柔らかな表情を見せた。
「もう“誰かの推薦”を必要とする存在ではない。君は、自らの力で王政に足跡を残した。私は、それを心から誇りに思う」
その言葉に、マリアベルの胸が熱くなる。
“認められた”のだ――長年、敬意を抱いてきたこの人に。
「ありがとうございます、宰相。
……その言葉に、恥じぬよう、これからも努めます」
そして、ヴァレンティスは一歩踏み出し、彼女の肩にそっと手を置いた。
「新しい時代の礎は、もう築かれはじめている。これからは――その先を見ていこう。君と、殿下と共に」
* * *
夜、クラヴィス家。
カトリーナとレオンは、娘の正式な婚約に深い感慨を覚えていた。
「マリアベルが、あの王太子と……ね。いつか大きな道に進むとは思っていたけれど、まさかここまでとは」
「父としての不安はあるが……母としての私は、あの子を誇りに思っているわ」
夫婦は静かにグラスを交わし、ささやかな祝福の夜を過ごしていた。
* * *
マリアベルは、月明かりの差す寝室で、ひとり机に向かっていた。
筆先を動かしながら、ふと窓の外を見上げる。
(私は、誰かの影に隠れているだけではない)
(……けれど、同時に誰かのそばで、自分をさらけ出せる相手がいることも……こんなに心強いものなのね)
頬をほんの少し紅潮させたまま、彼女は静かに呟いた。
「……カザエル。私もあなたのことを――もっと知っていきたい」
(この気持ちは――もしかしたら恋というものなのかもしれない)
マリアベルの中で、なにかが芽生えはじめていた。
その思いは、ただの使命感を超えて、未来を共に描きたいと願う“個人の祈り”になろうとしていた。
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