不器用な俺と、聖女になった幼馴染。
Yuki@召喚獣
始まりの風と、遠ざかる背中
目を覚ますと、窓の外はすでに薄い茜色に染まっていた。朝焼けだった。この
眼下には、見慣れた故郷の景色が広がっている。小さな家々が肩を寄せ合うように立ち並び、その向こうには、断崖絶壁の先に広がる「空の海」が見えた。空の海はいつも、この浮島を支えるように、静かに、そして雄大に広がっている。俺たちの故郷、風の民が暮らすこの浮島は、他の小さな浮島と「空の道」と呼ばれる風の通路で繋がっているだけで、外界との交流は限られていた。だからこそ、この場所は俺にとって、まぎれもない「世界」そのものだった。
その世界の中で、俺の隣にはいつもティアがいた。
台所から、かすかに香ばしい匂いが漂ってくる。もう起きているのか。彼女は昔から朝が早かった。俺は顔を洗い、身支度を整えて台所へ向かった。
「ライル、おはよう。遅いよ、もう朝食できてる!」
案の定、ティアはもう朝食を並べ終え、少し得意げな顔で俺を見ていた。陽光を浴びてきらめく金色の髪は、まるで彼女自身の明るい性格を表しているようだった。
「……ああ、おはよう」
気の利いた言葉が、どうしてもすぐに出てこない。いつもそうだ。言いたいことは山ほどあるのに、いざ彼女を目の前にすると、言葉が喉の奥に詰まり、結局この一言しか絞り出せない。俺のこんな不器用さを、ティアはいつも呆れたように笑ってくれる。
「もう、ライルはいつもそうなんだから」
そう言いながらも、ティアは俺の分の焼きたてのパンを皿に乗せてくれる。その指先が、わずかに俺の手に触れた。ひんやりとした彼女の指先から伝わる微かな熱に、俺の胸は小さく、しかし確かに高鳴るのを感じた。
「ありがとう」
俺の精一杯の感謝の言葉に、ティアはにこっと笑う。その笑顔が、俺にとっての全てだった。それだけで、俺は満たされた。
朝食を終えると、俺たちはいつものように裏山に向かった。ここは俺たちの修行の場だ。祖父が教えてくれた風術の基本を、ティアと二人、毎日繰り返す。
「ふぅっ……もう、やっぱりライルは早いなぁ」
ティアが額の汗を拭いながら、少し息を上げて言う。俺が風を操って作り出した小さな旋風を、彼女はまだ完璧には制御できていない。
「もっと、風と一体になるんだ」
俺はそう言って見本を見せた。風の流れに身を任せ、視線一つで風を従える。ティアはそれを、真剣な眼差しでじっと見つめていた。
「わかってるんだけどねぇ……」
む、と口を尖らせるティアは、いつもの可愛らしい彼女そのものだった。俺は、そんなティアの傍で、いつか二人でこの浮島を守る「守護者」になるという、幼い頃からの約束を、ずっと胸に抱き続けていた。それが俺の夢であり、俺の人生の全てだった。俺の隣には、ずっとティアがいる。その揺るぎない確信が、俺の心の中心に深く根を張っていたのだ。
しかし、その確信は、ある日突然、嵐のように吹き荒れる風によって打ち砕かれた。
その日、俺たちの浮島に、アルカディア――天空の都からの使者が現れたのだ。彼らは絢爛豪華な装束を身につけ、まばゆいばかりの風術を操り、まるで、俺たちが知る世界とは隔絶された、異世界の住人のようだった。
「ティア・リディアン、貴女に神託が下りました。天空の都アルカディアにて、神託の聖女としてお迎えいたします」
使者の言葉に、俺はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。ティアの澄んだ歌声が持つ特別な力が、都に古くから伝わる神託と共鳴したという。ティアが、俺たちの小さな浮島を離れ、天空の都の中心で、世界を救う存在となるのだ。
ティアは戸惑いながらも、その言葉を受け入れた。彼女の顔には、都での新しい生活への期待と、故郷を離れる寂しさが入り混じっていた。俺は、彼女の才能が認められたことを誇りに思う一方で、心臓を鷲掴みにされたかのような、激しい不安に襲われた。
見送りの日。
ティアは、これまで見たこともないような、神殿の白い衣をまとっていた。その姿は、俺が知っている幼馴染のティアとは少し違っていて、もう、手が届かないくらい遠い存在になってしまったような気がした。
「ライル……」
ティアが、不安そうに俺を見つめる。その瞳には、助けを求めるような光が宿っているように見えた。本当は、「行かないでほしい」「ずっと傍にいてほしい」と、そう叫びたかった。この手を離さないで、と。だが、言葉は喉の奥に引っかかったまま、どうしても出てこない。俺のこの不器用さは、こんな時でさえ、俺の心を縛り付けた。
「……大丈夫。俺も、強くなるから」
俺がようやく絞り出したのは、そんな紋切り型の、情けない言葉だけだった。ティアは、寂しそうに微笑んで、そっと踵を返した。
風に乗って、彼女を乗せた船が、ゆっくりと空の海を進んでいく。どんどん小さくなっていくティアの背中を、俺は、ただただ見送ることしかできなかった。
俺の不甲斐なさが、俺の言葉の足りなさが、ティアを俺から遠ざけていく。
彼女が去った後、浮島は、まるで色が失われたかのように静まり返った。ティアがいた場所には、ぽっかりと穴が開いたようだ。風の音さえ、どこか虚しく響く。
「俺がもっと強ければ……言葉にできていれば……ティアは、俺の傍に、いてくれたのだろうか」
そう呟いた俺の声は、風に掻き消され、誰に届くこともなく、ただ空に溶けていった。俺の「世界」は、その日から、色を失い始めたのだ。
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