第三十話:徐州進出、曹休を破る

陳倉城陥落という衝撃的な報は、既に呉蜀両軍からの挟撃によって動揺の極みにあった魏の朝廷に、さらなる深刻な衝撃と混乱をもたらした。

西方の戦略的防衛線に大きな破綻が生じる中、東方の呂蒙もまた、その攻勢の手を緩める気配は微塵も見せず、虎視眈々と次なる攻略目標を定めようとしていた。

魏の皇族であり、軍事の最高職である大司馬の地位にあった曹休は、この国家存亡の危機的状況を打開するため、そして何よりも、自らの軍事的名声と政治的影響力を高めるため、自ら魏の東方軍の主力を率いて出陣し、呉の呂蒙軍に乾坤一擲の決戦を挑むことを、独断で決意した。

彼は、呂蒙が淮南地方を完全に制圧し、さらにその勢いを駆って、古来より豊かな土地として知られる徐州方面へも、その戦略的触手を伸ばそうとしていることに、極めて強い危機感を抱いていた。

「呂蒙の、あの底知れぬ勢いを、これ以上放置しておけば、中原の豊かな地は、遠からず呉の手に落ちてしまうであろう。もはや一刻の猶予もならぬ。この曹子丹の手で、呉の増長した軍勢を徹底的に打ち破り、我が大魏帝国の威光を、改めて天下に示すのだ!」

そんな折、曹休の元に、呉の鄱陽太守であった周魴という人物から、魏への降伏を申し出るという、極秘の書状が届けられた。

その書状によれば、周魴は、孫権の近年の統治や、呂蒙の専横とも言える軍事行動に対し、強い不満と反感を抱いており、魏に内応して呂蒙を巧みに誘い出し、魏軍と共同でこれを挟撃し、打ち破るという大胆な策を提案してきたという。

曹休は、この願ってもない情報に飛びつき、周魴の言葉を鵜呑みにして、ほとんど何の疑いも抱くことなく、彼を完全に信用してしまった。

そして、周魴との間で事前に打ち合わせたとされる、呉軍撃滅の計画を実行するため、大軍を率いて揚州方面の皖城へと、勇躍進軍を開始した。

功を焦る心は、時に最も賢明な人間すら盲目にするものである。

しかし、これは全て、呉の大都督・呂蒙と、彼に絶対の忠誠を誓う周魴とが、周到に練り上げた、極めて巧妙かつ危険な偽降の計略であった。

周魴は、呂蒙の緻密な指示に従い、自らの髪を断ち切り、孫権への積年の不満と恨みを書き連ねた、真に迫る偽の書状を送るなど、およそ考えうる限りの手段を尽くして、曹休を完全に信用させていたのである。

呂蒙は、曹休が完全に罠にかかり、大軍を率いて指定の場所へと進軍を開始したことを確認すると、陸遜、朱桓といった、呉が誇る智勇兼備の名将たちと共に、揚州の石亭と呼ばれる、狭隘な谷間に挟まれた戦略的地点に、大規模な伏兵を配置し、何も知らずにやって来る曹休の軍勢を、静かに、しかし確実に待ち構えた。

功名心に逸り、呉軍撃滅の夢想に酔いしれていた曹休の軍勢は、何の警戒心も抱くことなく、意気揚々と石亭の隘路へと進軍してきた。

そして、彼らの大軍が、狭く見通しの悪い谷間に完全に進入しきった、まさにその瞬間、突如として四方八方の山林や高地から、鬨の声と共に、呉軍の伏兵が、あたかも山津波のように襲いかかった。

「かかれっ!魏軍を一兵たりとも逃すな!一人残らず殲滅せよ!」

呂蒙の、戦場に轟き渡る、厳しくも力強い号令一下、呉の兵士たちは、怒濤のごとく、混乱し狼狽する曹休の軍勢へと襲いかかった。

曹休の軍勢は、この予期せぬ完全な不意打ちに、完全に戦意を喪失し、組織的な抵抗もできずに大混乱に陥った。

曹休自身もまた、必死に馬上で指揮を執り、この絶望的な状況を打開しようと試みるが、既に戦局は完全に決していた。

呉軍の周到な包囲と、兵士たちの圧倒的な士気の前に、魏軍はなすすべもなかった。

凄惨極まる激しい戦闘の末、曹休の率いた魏軍は、文字通り壊滅的な打撃を受け、その兵力の大半を失った。

曹休自身は、僅かな手勢と共に、辛うじて死地を脱出し、命からがら敗走するのが精一杯であった。

この石亭の戦いにおいて、魏軍は、数万という貴重な兵士と、膨大な量の軍需物資を失い、その国家としての威信は、地に墜ちたと言っても過言ではなかった。

この石亭における輝かしい大勝利により、呉は、徐州南部におけるその影響力を、揺るぎないものとし、悲願であった中原への進出を、さらに大きく加速させることになった。

そして、呂蒙の名声は、もはや呉国内に留まらず、遠く魏の国中にまで、恐怖と畏敬の念と共に轟き渡った。

彼の、神懸かり的とも言える知略と、鉄壁の用兵術は、もはや中華の誰もが認めざるを得ない、絶対的なものとなっていたのである。

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