第二十九話:陳倉の戦い、郝昭との死闘

呂蒙が、東部戦線において司馬懿という新たな強敵と、息詰まるような知略戦を展開していたまさにその頃、西方の蜀漢においても、丞相・諸葛亮が、国家の命運を賭けた第二次北伐の軍事行動を開始していた。

今回の蜀軍の主たる攻略目標は、雍州の東部に位置する戦略的要衝・陳倉城であった。

陳倉は、漢中から関中平野へと至る、古来より知られた交通の要衝であり、この堅城を陥落させることができれば、蜀軍は長安攻略への大きな足掛かりを得ることになる。

それは、劉備の悲願であった漢室復興への、重要な一歩を意味していた。

しかし、この陳倉城を守っていたのは、魏の将軍・郝昭であった。

彼は、中央ではほとんど無名に近い存在であり、その武勇や知略が広く知られていたわけではなかった。

だが、その守戦の能力たるや、まさに鉄壁と呼ぶにふさわしいものであり、諸葛亮が率いる蜀の精鋭部隊による、雲梯、衝車、井闌といった、ありとあらゆる攻城兵器を駆使した度重なる猛攻を、ことごとく巧妙かつ粘り強い戦術で撃退した。

蜀軍は、この陳倉城の、予想を遥かに超えた堅固な守りの前に、多くの有能な将兵と貴重な兵器を失い、深刻な苦戦を強いられることになった。

この蜀軍苦戦の報は、遠く東部戦線で指揮を執る呂蒙の元にも、詳細にもたらされた。

「何と、孔明殿が、陳倉という一城の攻略に、あれほどまでに手こずっておられると申すか…その郝昭とかいう魏将、いかなる者か。寡兵で蜀の大軍を押し返しているとは、尋常の将ではないな」

呂蒙は、諸葛亮との間に結ばれた呉蜀同盟の重要性を、誰よりも深く認識していた。

蜀軍が西で魏軍の主力を効果的に牽制し、その兵力を引きつけてくれなければ、東部戦線で戦う呉軍は、魏の全力を直接相手にしなければならなくなり、戦局は極めて不利なものとなる。

「孔明殿のこの苦境を、我々が座視しているわけにはいかぬ。我らもまた、東部戦線において、より一層積極的な攻勢をかけ、魏軍が陳倉方面へと大規模な増援部隊を派遣することを、物理的に不可能にしなければなるまい」

呂蒙は、司馬懿率いる魏軍主力との睨み合いを続け、敵に警戒心を抱かせつつも、麾下の一部隊を巧みに別行動させ、徐州方面や豫州方面といった、魏の東部戦線の他の地域に対し、陽動とも本気とも取れる、積極的な攻撃を仕掛けさせた。

これにより、魏の朝廷と軍司令部は、東部戦線全体の崩壊を恐れ、陳倉城へ送るべき増援部隊の派遣規模を縮小せざるを得なくなり、またその到着も大幅に遅れることになった。

陳倉城を守る郝昭は、圧倒的な兵力差にも関わらず、その卓越した指揮能力と、兵士たちの決死の奮戦によって、驚くべき粘り強さで城を守り続けていた。

しかし、城内の食料や矢弾も、日を追うごとに確実に底を突き始め、兵士たちの肉体的・精神的な疲労も、もはや限界に達しつつあった。

さらに、長期間にわたる不眠不休の激務と、極度の心労がたたったのか、鉄人と思われた郝昭自身もまた、ついに重い病の床に就いてしまう。

絶対的な指導者であった郝昭を失い、そして魏からの大規模な援軍の当てもない陳倉城は、ついに諸葛亮率いる蜀軍の、最後の猛攻の前に陥落した。

陳倉城の陥落は、蜀漢にとって、北伐戦略における極めて大きな前進であり、魏にとっては、西方の防衛線に、修復困難な巨大な穴が開いたことを意味した。

そしてこの輝かしい勝利は、東部戦線における呂蒙による、巧妙かつ効果的な間接的支援がなければ、あるいは成し遂げられなかったかもしれないものであった。

呉蜀同盟の戦略的連携が、初めて具体的な形で、強大な魏帝国を大きく揺るがした瞬間であった。

歴史の歯車は、確実に、しかしゆっくりと、魏の没落へと向かって回転を始めていた。

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