第28話 如月贈菓祭 開幕!

──夢を見ていた。

淡い、チョコレート色の記憶だった。


 


中学一年の冬。

母が病気でこの世を去った、あの年のバレンタイン。


 


「……母がいなくなってから、家の空気が変わった気がした」

「わたしがしっかりしなきゃ。泣いてる場合じゃない。葵まで泣かせたくないから」


 


そんな気持ちで毎日を乗り越えていた頃。

同じクラスの男子──名前は、今ではもう思い出せない。

けれど、彼の言葉だけは、今でも胸の奥に残っている。


 


「……大丈夫?」

「無理、してない?」


 


何気ない一言だった。

でも、それだけで、少し救われた気がした。

誰かに気づいてもらえた。それだけで、涙が出そうだった。


 


──その人に、バレンタインのチョコを渡そう。

勇気を出して、少しだけ前に進もう。

そんな気持ちで、不器用な手つきでチョコを作った。


 


「ありがとう」

手渡したときの彼の笑顔。うれしくて、胸が熱くなった。


 


……でも──


 


次の日、教室の後ろのほうで聞こえた、男子たちの会話。


 


「お前、椎名からチョコもらったんか?」

「だってあいつ、顔だけは超可愛いじゃん」

「ちょろかったな〜、ちょっと優しくしただけでホイホイと」


 


何かが、胸の奥でひび割れた。

恥ずかしくて、情けなくて、泣きたくても泣けなくて。


 


ああ、私、またひとりで勝手に期待して、勝手に傷ついたんだ──


 


それ以来、“好き”という感情から目を背けるようになった。

高校も女子校を選んだ。恋なんて、いらないと思っていた。


 


──それでも。


 


気がつけば、チョコレートを作っている自分がいた。

誰かの笑顔を思い浮かべながら、そっと手を伸ばしていた。


 


湊くんのことを考えながら──


 


(……あのときと同じになるのが怖いのに)

(どうして、わたし、また……)


 


──この気持ちが、“恋”かどうかは、まだよく分からない。

でも、ただの義理だなんて、もう言えない。


 


だからこそ、怖い。


 


握りしめたチョコの小箱が、少しだけ震えていた。


 


──陽咲男子高等学校・講堂。

時間は午前十時。

椿ヶ丘の女子たちを迎えるため、講堂は華やかな飾り付けで彩られていた。


 


「よっしゃあ!チョコ10個、目指すぞー!」

「……お前、義理の定義わかってんのか?」


 


浮き足立つ男子たちの間を、リボンと紙袋が飛び交う。

ステージの横には生徒会主導の受付が設けられ、校内放送では軽快なBGMが流れていた。


 


「ふふふ……今年は俺、リスト作ってきたから」

「配布イベントじゃねーか、それもう」


 


俺はそんな教室の隅で、窓の外をぼんやり眺めていた。


 


「……ま、俺には関係ないし」


 


誰にも聞かれないように、そっと呟く。

でも、心の中では、落ち着かない気持ちがくすぶっていた。


 


──チョコが欲しいわけじゃない。

ただ、あの子の顔を、見たいだけ。


 


その胸のざわめきを誤魔化すように、AICOが声をかける。


 


《おはようございます、佐倉湊さん》

《観測開始──陽咲男子校舎、男子たちの脈拍平均:通常より+12》

《“チョコをもらう可能性”に対する期待度、過去最高値を更新中》


 


「朝からうるせえな、AICO……」


 


《私は感情を持ちませんが──今日は、あなたが少し“揺れている”ことに気づいています》


 


「……余計なことまで観測してんのか」


 


《当然です。それが私の仕事ですから》


 


淡々とした口調のAICOだったが、その“声の色”は、どこか穏やかだった。


 


そのとき、校内放送が切り替わる。


 


『まもなく! 椿ヶ丘女子学園の皆さんが到着します! 各班、配置についてください!』


 


「き、来たか……!」

「おい!お前ら、靴そろえろ!ネクタイ直せ!」

「そこ、ガム噛むなーっ!」


 


やがて、講堂の扉がゆっくりと開く。


そこから、椿ヶ丘の制服を着た女子たちが、列をなして入場してくる。


 


会場の男子たちが一斉にざわめく中──

俺の視線も、自然とその中のひとりに吸い寄せられていた。


 


……いた。


 


椎名さんだった。


 


制服の上に、ふわりとかけられたコート。

いつもよりほんの少しだけ髪を巻いていて、光の加減で瞳がきらめいて見えた。


 


周囲の友人たちと談笑しながら入ってくるその姿に、俺は思わず息をのんだ。


 


(……なんだ、あれ。ずるいだろ)


 


見慣れているはずの彼女なのに、今日の椎名さんは、まるで違う世界から来たみたいに、遠くて、綺麗で。


 


「湊、顔赤いぞ」


 


隣から陽翔に肩をつつかれて、俺はあわてて視線を外した。


 


「な、なんでもねえよ……! 気のせいだ」


 


……そう言いながらも、俺の胸は、さっきよりずっと早く脈を打っていた。


 


──そして、この日、男子校最大の“戦場”が幕を開ける。


 


講堂に設けられた壇上には、長机とパイプ椅子が並び、背後のスクリーンには本日のテーマが映し出されていた。


 


『義理と本命における、男女間認識格差の是正』


 


──会場がざわつくのも無理はない。

“贈菓祭”というほぼ恋愛イベントに、こんな硬派なタイトルを掲げて議論を行おうなどと提案したのは、

陽咲男子高生徒会長・紀伊真面目(きいまじめ)。通称「生真面目会長」(きまじめかいちょう)である。


 


マイクを持った彼は、一礼してから開口一番、こう言った。


 


「男子がバレンタインにおいて、最も心を乱されるのは──“義理と本命の境界線が曖昧”であることです」


 


その言葉に、男子生徒たちが頷き、女子生徒たちは微妙な顔を浮かべた。


 


「女性の側が、“義理”であることを前提に渡したとしても、男子はそこに“希望”を見出してしまう生き物なのです」


 


その理路整然(りろせいぜん)とした主張に、会場は「たしかに……」という空気になりかける。


 


しかし、対する女子側代表・佐倉美優がすかさずマイクを取った。


 


「それって、女子が“曖昧な気持ち”を持ってるせいにしてませんか?」


 


「……と言いますと?」


 


「“ありがとう”とか“いつも助かってる”とか……“本命”じゃなくても、そういう気持ちを伝えたくてチョコを渡す子もいるんです。

それを“期待した側が傷ついた”からって、渡した側が責められるのは、ちょっと理不尽じゃないですか?」


 


女子たちから拍手と歓声が上がる。

男子たちはやや押され気味──。


 


「なるほど。ですが、男子の側からすれば、それは“好意の芽”と受け取れる可能性がある以上、感情の誤解は不可避です」


 


「でも、それって“女子が悪い”って話じゃないですよね?」


 


バチバチと火花を散らすふたりの議論に、会場の熱も上がっていく。


 


──そんな空気を、感情の塊がぶち破った。


 


「ちょい待てやああああ!!」


 


マイクを奪い取るように割って入ったのは、男子代表(なぜか飛び入り)の大河原 要。


 


「そもそもよおっ! 男子ってのは、ちょっとした優しさで、すぐ舞い上がる生き物なんだよ!!」


 


「去年の贈菓祭でよぉ! チョコ手渡しで“はいっ”て微笑まれて……

その顔、一年間、脳内保存だぞ!? 俺にとっちゃ一生もんなんだよ!!」


 


客席から「そこまで!?」と、声が上がる。


 


「でもな……それでも、なんか期待しちまうんだよ!バレンタインって、そういう日なんだよ! 期待して、期待して──チョコゼロだったやつの気持ち、わかるかよ!!」


 


またも客席から「わかるぅぅぅうう!!!」の声。


 


要が吠えるたび、男子たちは拳を突き上げていた。

女子たちは呆れつつも、少し笑っていた。


 


そして、司会が静かにマイクを取る。


 


「では、陽咲側から……最後に一人。我らが恋神こと佐倉くん、コメントをお願いします」


 


「えっ!?俺っ!?」


 


「恋神さまだ。」

「ありがたや。」


 


数名の男子生徒が手を合わせて神に祈りを捧げている。


 


俺は驚きつつも目を見開き、それからゆっくりとマイクを手に取った。


 


「……本命か義理かって、たしかに“わからない”ものかもしれません」


 


「でも……誰かの優しさに、“もしかして”って思うのは、悪いことじゃないと思うんです」


 


「本命じゃなかったとしても、その気持ちに“ありがとう”って返せるような……そういう男でいたい、って思います」


 


男子たちは静かになり、女子たちも息を呑んでいた。


 


──そして、ひとりの少女が、そっと立ち上がる。


 


椎名さんだった。


 


マイクを手にした彼女は、ほんの少しだけ目を伏せ、それから前を見据えた。


 


「わたし……“義理”とか“本命”とか、まだよく分からないけど」


 


「誰かのことを考えながら、チョコを作る時間って……とても、あったかいなって思いました」


 


会場が、しん……と静まり返る。


 


「その人の笑顔を想像したり、喜んでくれるかなって思ったり……

そんなふうに誰かのことを想える気持ちは……たとえそれが“義理”でも、“恋”じゃなくても……」


 


「“大切”って、言っていいんじゃないかなって」


 


「……」


 


観客席の男子も女子も、なぜか顔を赤らめて、口をつぐんで──


 


沈黙。


 


──そして、どこからともなく聞こえてきた。


 


「……尊い……」

「椎名さん、尊い……」

「恋って……尊い……」


 


次々に上がる「尊いコール」。


 


俺は目を丸くして、椎名さんのほうを見る。

彼女は少し照れながらも、まっすぐ俺を見返していた。


 


──議論は、勝敗ではなく「尊さ」で幕を閉じた。


 


会場が拍手に包まれる中、俺の胸には、言いようのない温かさが残っていた。

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