第21話 本当の顔

冬休みが明けてから、俺と椎名さんは、ぽつぽつとメッセージアプリでやりとりをする仲になっていた。


おすすめの本の話。

彼女の好きな紅茶の話。

学校での出来事や、クラスの友達との笑い話。


最初の頃は、既読がつくたびに緊張して、返信を考えるのに三十分はかかっていた。

でも今は、もう少し自然に、ぽんっと言葉を返せるようになっている。


それが、なんだか嬉しかった。


画面の向こうの椎名さんが、少しずつ近づいてきてくれているような気がして。

──自分自身も、彼女を少しずつ知れているような気がして。


けれど。


(……俺は、まだ本当の椎名さんを知らないのかもしれない)


初詣のときに言われた、葵くんの言葉がずっと胸に残っていた。


「あなたが見ている姉さんは、完璧で、優しくて、気配りのできる人でしょう。でも、本当は──無理をしているときも、あるんです」


優しい彼女の笑顔が、どこか“完璧すぎる”と感じる瞬間がある。


──その奥には、知らない顔があるのかもしれない。


 


そんなことをぼんやり考えながら、俺は新学期初日の教室へと足を踏み入れた。


 


その瞬間。


「出たあああああああああ!!!」

「恋神さまじゃああ!!」

「恋神さま!神降臨です!!」

「尊いッ!!ありがたや!!」


異様な盛り上がりに、一歩目から足が止まった。


「……は?」


ざわつくクラス。目を輝かせた男子たちが、ぞろぞろと俺の周囲に群がってくる。


「おい、マジだったのか!? クリスマスデートって!」

「情報班の画像、拡散されたぞ!? 映画観に行ってたんだろ!?」


「え、あの……え?」


情報が追いつかない。


そのとき、教室の後ろから陽翔の声が聞こえた。


「……クリスマスデートの時、映画館から出てきた二人の写真が情報班によって拡散されてたぞ」


「え、なんで──!」


 


どこからともなく、厨二病ボイスが響いた。


《我が主よ……今、おぬしは“恋の勇者”から、さらなる高みへと昇華されたのだ──》


《すなわち、“恋神こいがみ”──神格化、完了である!!》


「AICOまで便乗してきたーー!!」


《この日以降、貴様の名は、恋を目指す男子の聖地と化すであろう。拝む者、願う者、捧げる者……すべての信仰が、貴様に注がれるのだ……!》


「注がなくていいから!!」


 


その後も、教室はお祭り騒ぎだった。──というか、もはや宗教だった。


「恋神さま、どうか私にも彼女ができますように」

「恋神さま、推しが振り向いてくれますように」


教室の隅では、“お賽銭”の代わりにチョコバーを供える者まで現れた。


《願いを捧げし者よ……代償としてチョコバーを供えよ……》


「……さすがにネタすぎるだろ」


「ちげーよ、これは信仰だよ信仰。男子校のバカみたいな信仰心ナメんな」


要が真顔で言い放ち、純は小さく拍手しながら囁いた。


「……佐倉くん、神々しいです……」


「やめろぉぉぉおおお!!」


 


昼休みになる頃には、廊下に「湊神社」と書かれた手作りポスターが貼られていた。


「どこの宗教団体だよ……! 俺の知らんところで神社できてるじゃん……!」


《我が主よ……これはもはや宿命。恋の神は逃れられぬ運命を背負う者……》


「やかましいわ、AICOォォォ!!」


 


「……ふふ。なんか、前にもこんなことあったよな」


陽翔が笑いながら呟いた。


「文化祭の後も、“勇者”とか“英雄”とか持ち上げられてたけど、今回は……」


「完全に神様扱いだもんなあ。ハレの日パワーおそるべし」


要が肩をすくめる。


「……僕、そろそろ“神の使い”名乗ってもいいかな……?」


「純、それはそれで信者増えそうだからやめてくれ……!」


 


「──でもまあ、誇っていいと思うけどな」


ふいに、要が真面目な顔で湊を見た。


「ちゃんと相手のこと想って、行動して、向き合って……そんで“クリスマス一緒に過ごした”んだもんな」


「……そっか」


俺は少しだけ、照れ笑い。


確かに、自分は椎名さんと向き合った。

想いをぶつけて、クリスマスを一緒に過ごした。──大切な人と。


けれど。


(──それだけじゃ、足りない気がする)


あの日、葵くんに言われた言葉が、また心に浮かんだ。


「貴方は、姉さんの“本当の顔”を、どれだけ見ていますか?」


(俺は……まだ、全部は知らない)


それでも知りたいと思った。

もっと彼女のことを。もっと、その心の奥を。


(知りたい。……本当の椎名さんを好きになりたいから)


そう思った俺の表情は、少しだけ引き締まっていたと思う。


 


放課後。


「いやー今日もやかましかったな……」


「まさか“恋神絵馬”まで出てくるとは思わなかったね……」


「うん……しかも、受験の合格祈願率が高すぎる……」


「もはや学問にも精通する神とわな」


湊、陽翔、要、純の四人は、駅前の商店街を歩いていた。


夕暮れの街は、やわらかな光に包まれていた。


 


そのときだった。


「──おや、どうされたんですか?」


曲がり角の向こうから、丁寧な少年の声が聞こえた。


覗き込むと、小柄なお婆さんが重そうな買い物袋を抱えて、歩道橋の前で困っていた。


それを手伝っていたのは──あのイケメン中学生だった。


「……葵くん……?」


「あなたは………奇遇ですね」


相変わらず整いすぎた顔に、さらりとした黒髪。

制服姿が妙にサマになっている。


「すみません、お待たせしました。お足元、どうかお気をつけて」


優しくお婆さんに声をかけ、荷物を渡す葵。

その表情は、初詣のときとはまるで別人のように穏やかだった。


「……お、おい、なんか普通にイケメンムーブじゃね?」


「ジェントル葵だ……」


「……たぶん、女性に優しいやつだ、これは……」


陽翔たちが小声でざわつく。


 


「……優しいとこあるんだな」


俺が声をかけると、葵くんは小さく咳払いをした。


「当然です。困っている人を見過ごすなど、姉さんの名折れですから」


「いや、あくまで自分の信条で動けよ……」


「……で? 今日はどちらへ? また“姉さん”とですか?」


「ちがうわ!」


そのやりとりを聞いていた陽翔が、ふっと俺の顔を見て、小さく笑った。


 


「──なあ、湊」


「……ん?」


「オマエさ、葵と話したくてうずうずしてんの、バレバレだぞ。……しゃーねぇな。ちょっと空気、作ってやるよ」


 


「お前も今ヒマなんだろ? 飯いこーぜ!」


「えっ……?」


「せっかく会ったんだし、メシくらい一緒に食ってこうぜ。な?」


「……ですが、僕は別に、あなた方と親交を深めたいとは──」


「ファミレスの新作パフェ、めちゃくちゃ美味いらしいぞ」


「……五分だけなら」


「ちょろっ!!」


全員が一斉にツッコんだ。


 


 


◇ ◇ ◇


 


ファミレスのテーブルに並ぶのは、ドリンクバーとチョコパフェ。

まるで“絶対食べないキャラ”が一口で沼るテンプレのように、葵くんはきれいに一口目をすくっていた。


「……なるほど。甘さ控えめで、チョコのビター感が絶妙ですね」


「お前、コメントもイケメンかよ」


 


しばらく雑談が続いたあと、ふと俺が視線を向けた。


 


「……なあ、葵くん。ちょっと、聞いていいか?」


「なんですか?」


「この前、初詣で言ってたこと。……椎名さんの“本当の顔”って……」


葵くんの手が、ぴたりと止まった。


沈黙が落ちる。


空気が、少しだけ張り詰める。


 


「……まさか、それを聞くために、僕をここへ?」


「いや、たまたま会っただけだけど……でも、聞きたかったのは本当だ」


俺は、正面から葵くんを見つめていた。


「気になって仕方なかった。……オレ、まだ椎名さんのことを、ちゃんと知らないままなんじゃないかって思って」


 


「……」


葵くんは少しだけ視線を伏せた。その瞳に揺れるのは、迷いか、それともためらいか。


「……あなたに話したところで、姉さんの全部を理解できるとは思っていません」


「……それでも、知りたいと思ってる。ちゃんと、向き合いたいから」


 


そう告げた俺の声はまっすぐで、飾り気のないものだった。


沈黙がふたたび落ちる。


 


やがて──


 


「……ほんと、厄介な人ですね、あなたは」


ふうっと小さく息をついた葵くんが、ようやく俺に目を向けてくれた。


その表情には、かすかに残った警戒と、それ以上に──わずかな諦めが滲んでいた。


 


「……わかりました。そこまで言うのなら──少しだけ、お話しします」


その声音は、静かで慎重だったが、確かな“歩み寄り”があった。


 


「姉さんのこと。……そして、僕たち椎名家の過去について」


 


──つづく。

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