第46章「終わりの始まり、契りを超えて」
木漏れ日の射す山道を、健太と向葵は並んで歩いていた。
春の陽光は柔らかく、遠くからは鳥のさえずりも聞こえる。だが、その静けさは二人の胸の内に渦巻く思考を沈めるには至らなかった。
「……本当に、これでいいんだな」
健太の声は、落ち着いているようでいて、どこかで縋るような響きを含んでいた。
向葵は、少し前を歩きながら立ち止まらずに答える。
「いいか悪いかなんて、考え始めたらきりがないよ。私たちは、あの契約を越えて、ここまで来た。それだけは確かなんだから」
風が彼女の髪を撫で、細い黒髪がふわりと舞う。
健太はその横顔を見つめながら、小さく息を吐いた。
「向葵。あのとき、君が言ってくれた言葉がずっと残ってる。“契約で始まっても、本音で終わりたい”って。今の僕は、あの言葉に救われてる気がする」
「だったら、契約は捨ててもいいんじゃない? 健太はもう、誰かに縛られなくてもちゃんと自分の意思で歩ける人間だよ」
その言葉に、健太の足が止まる。
契約——それはあくまで形式に過ぎないはずだった。
けれど、気づけばそれは互いの心に根を張り、いつしか“絆”と呼べる何かに変わっていた。
向葵が振り返る。
そして、笑った。
「だから、私もそうする。あの日、偶然の出会いだったけど……もう偶然じゃない。私は、健太と一緒に選んできた。いろんなものを、いろんな人を」
健太はゆっくりと歩を進め、彼女の隣に並び直した。
「……終わらせるってことは、始め直すってことなんだな」
「うん。そういうこと」
契約に縛られた仮初めの夫婦は、もういない。
これからは、名前のない関係の中で、自らの足で一歩を踏み出す。
その覚悟が、今日この場所で試されるのだ。
向かった先は、神域の入口。
異界と現世を隔てる“結びの門”。ここでしか果たせない儀式がある。
ふたりは、一枚の札を手にしていた。それは、かつて交わした契約の象徴だった。
今から、それを焼く。
「名残惜しい?」向葵が聞く。
「ううん……いや、少しだけ。でも、燃えて消えたところで、僕らの記憶が消えるわけじゃないからね」
向葵は頷くと、手のひらに火種を作った。
彼女の持つ炎の術は、今やかつてのような暴発もない。静かに、しなやかに、意志をもって揺らぐ。
「いくよ」
ふたりで札をかざし、同時に火を点けた。
パチ、パチと小さく音を立てて燃え上がる札。その火が風に吹かれて舞い上がると、灰となって空に消えていく。
契約の終焉——その象徴だった。
しかし、ふたりの顔に迷いはなかった。
むしろ、それは解放だった。
不確かな関係を覆っていた霧が晴れ、ようやく互いの姿がはっきりと見えた、そんな気さえした。
「健太」
「ん?」
「私、やっぱり君のこと……」
その先を言いかけた瞬間、空気が震えた。
風が巻き起こり、神域の門が勝手に開いたのだ。
そこに現れたのは、誠だった。だが、彼の背後にはただならぬ気配がある。
「待って。……向葵、健太、今は進んじゃダメだ」
誠の顔には、見たことのないような切迫した表情が浮かんでいた。
「誠……? どういうこと?」
向葵の声が張りつめる。風が冷たくなり、先ほどまでの柔らかな春光が色を変えた。門の奥から、異様な気配が漏れ出ている。空間がきしむような、不協和音が聴こえた気さえした。
誠は前に立ちはだかり、二人をかばうように手を広げた。
「門が……歪んでる。いや、向こう側の結界そのものが崩れ始めているんだ」
健太の顔が曇る。「まさか……このタイミングで?」
「誰かが、意図的に門を開けた。結界に逆らう形で。……理子の仕業かもしれない」
向葵は思わず拳を握った。「理子……どうして?」
誠は目を閉じ、深く息を吸い込むと、静かに言った。
「理子は、境界を越える力を欲している。目的ははっきりしない。でも、今の動き方は、“勝つ”ためだけの手段じゃない。彼女は、何かを壊そうとしてる」
健太は無意識に向葵の手を取った。互いの手のひらが、今だけは唯一確かな温度を伝える。
「行こう。放っておけない。僕らの選択を、最後まで貫くためにも」
「……うん」
誠はちらりと健太を見ると、口元をわずかに緩めた。
「君たちならそう言うと思ったよ。……だから、ひとつ伝えておきたいことがある」
「何?」
「この先、結界が不安定なせいで、“思い”の強さが空間をねじ曲げる。つまり、自分の本心に嘘をついたまま進めば、心の影に取り込まれる危険がある」
向葵が一歩前に出る。「それって……つまり、“本気じゃない関係”なら、飲まれるってこと?」
「その通り。これは“形式”の話じゃない。君たちが、心の奥で結ばれているかどうか、それが問われる場になる」
健太は短く息を吐き、向葵を見た。「……大丈夫か?」
向葵はにやりと笑う。「何言ってるの。心配するのは私のほうなんだけど」
「じゃあ、行こう。……一緒に」
三人は門を越えた。
そこには、歪んだ景色が広がっていた。
昼と夜が同居する空。足元は現実のようでいて夢のような、揺らぐ地面。色を失った木々。そして――その中央に、理子がいた。
彼女は、淡い光の輪を背にして立っていた。その表情には勝者の冷徹も敗者の哀切もなく、ただ静かに炎が灯っていた。
「来たのね、健太、向葵。それでこそ、終わらせる意味があるわ」
向葵が叫ぶ。「どうしてこんなことを!? あなたは……!」
「“契約”なんてものに縛られたままじゃ、本当の自由は来ないわよ。偽りの絆なんて、燃やして灰にして、初めて本物になるの」
「私たちはもう、その答えを見つけた」
健太がきっぱりと言った。
だが理子は首を振る。「いいえ、見つけたつもりになってるだけ。見せてあげる。あなたたちが“何にすがっていたのか”。」
その瞬間、地面が割れた。
向葵と健太の目の前に、ふたりの“影”が現れた。
それは、過去に縛られ、恐れに囚われた、自分自身の姿だった。
現れた“影”は、まるで黒墨を水に落としたような曖昧な輪郭をしていた。
だが、その姿形はあまりにも明確だった。
向葵の前に立つ影は、かつて自分の価値を疑い、健太に寄りかかることすら拒んだ頃の、冷たく閉じた表情の自分。
健太の前に現れた影は、守らなければと思いながらも、一歩も踏み出せずに迷っていた日々の自分。
「これは――」
「あなたたちの“未練”。心の奥に残っている、契約という言葉にすがっていた弱さよ」
理子の声が、淡々とした響きを帯びていた。だがその目には、何かを諦めたような影が浮かぶ。
「そんなもの、今さら!」
向葵が叫ぶと同時に、彼女の影が動いた。高速で彼女に詰め寄り、手を伸ばす。その手は冷たい闇の感触を持ち、心の奥に直接触れてくるようだった。
「私は、もうあんたじゃないっ!」
向葵は構えを取り、反射的に術を放つ。
だが、影はかわすのではなく、向葵の心の中に潜り込もうとしてくる。
「自分を信じていないくせに。全部健太に押しつけて、楽になろうとしただけじゃないの?」
――心の声だ。
誰にも明かしていない、彼女自身の痛みが形になって迫ってくる。
健太もまた、影の言葉に動けずにいた。
「向葵の言葉を信じるフリをして、本当は怖かったんじゃないか? 一人になるのが。契約がなければ、自分は誰かと結ばれる価値もないって、思ってたんだろ?」
その声が胸を貫いた。足が動かない。目が離せない。
そのとき、背中に暖かい感触が走った。
向葵だった。
彼女が、自分の影と戦いながらも、手を伸ばしてくれていた。
「私は……確かに、健太に頼った。でも、それがいけないことなの? 頼って、支えて、また立ち上がって――それのどこが間違いなの?」
彼女の手を握った瞬間、健太の中にも何かが弾けた。
「僕も……僕だって、向葵に救われた。誰かと“ちゃんと向き合う”ってことを、初めて教えてくれたのは君なんだ!」
光が、ふたりの間から生まれた。
それは、心の影を照らす光だった。
影の輪郭が歪み、ゆっくりと崩れていく。まるで、もう必要ないものとして静かに消えていくように。
理子が目を見開いた。
「……まさか……ここまで昇華するなんて……」
誠が後方から歩み寄り、静かに告げた。
「理子。君は、負けたわけじゃない。ただ、もう終わりにしていいんだ」
「……私は……何かを守るために手段を選ばなかった。なのに、あのふたりは――」
「選んだんだよ。お互いを。そして、自分の弱ささえも」
理子は俯き、わずかに肩を震わせた。
門の向こうの世界が、静かに揺らいでいる。
世界の歪みが修復され、風が緩やかになっていく。
向葵が健太の手を取り、ゆっくりと歩き出した。
「じゃあ、次は……“ふたりの答え”を示す番だね」
健太も頷いた。
「ここからが、本当の始まりだ」
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